『国際名誉勲章委員会』

インターネット草創期から根強く存在するネット都市伝説に、「米国にある『国際名誉勲章委員会』なる組織に申請書と33ドルを送ると、リヒテンシュタイン公国の爵位が買える」というものがあります。・・・・・

どう見ても胡散臭い話で、ツッコミどころが満載なのですが、それでも真に受ける人がいるようで、質問サイトなどに「『国際名誉勲章委員会』のサイトを教えてください」などという投稿があったりします。

まずはっきり言いますが、リヒテンシュタイン公国の爵位を33ドルで購入することはできませんし、『国際名誉勲章委員会』などという組織も存在しません。だいたい、なんで、リヒテンシュタイン公国の爵位の授与を、米国にある妙な団体が決定するのか意味不明です。リヒテンシュタインは確かに小さな国(国土面積:160平方キロメートル、人口:約35000人)で、おそらく、このデマを考えた人間は「小さい国ならカネを払えば爵位ぐらいくれるとしてもおかしくはないだろう」とでも考えたのでしょう。しかし、小さい国だからといって、貧しいわけではありません。リヒテンシュタインの1人あたりGDPは約12万ドル(日本は約4万ドル)、国家元首であるハンス・アダム2世は欧州の君主の中で最大といわれる、50億ドルもの資産を保有しています。爵位を授与するのは君主であるこのハンス・アダム2世です。50億ドルの資産を持つ人が、33ドルのカネが欲しくて爵位を売るでしょうか。まったく馬鹿げた話です。

『Lord』の地位が買える?

さいわい、というべきか、国際名誉勲章委員会のサイトというのは存在しないので、だまされて33ドル払う人もいないようです。しかし、国際名誉勲章委員会とは全く別に、爵位や貴族の称号を販売すると称する団体のサイトは実は無数に存在します。一番多いのは、英国の「Lord」の称号が購入できる、というものです。

これがまた曲者です。たしかに英国で有爵者(貴族)とその子息に対して「Lord」という敬称を用いますが、しかしこれらはあくまで敬称であって、「Lord」という爵位が存在するわけではありませんし、当然のことながら、敬称をお金で買うことなどできません(敬称としての「Lord」の使い方は非常にややこしいので、余談として後でまとめます)。では、この手のサイトは何を売っているのかというと、「Lord of the Manor」の地位を売っているのだそうです。

「Lord of the Manor」というのは「荘園領主」のことです。かつて貴族は広大な荘園を保有していましたから、公爵や侯爵、伯爵はみな「Lord of the Manor」でもありました。しかし、逆は真ならず、で、「Lord of the Manor」だからといって、それで貴族というわけではありません。両者は基本的に別物です。特に英国の場合、「郷紳(ジェントリ)」と呼ばれる、貴族ではない地主層が貴族より多く存在していました。彼らは「Lord of the Manor」ですが、貴族ではなく爵位も持っていません。彼らは地主として得られる不労所得を背景に、地方行政職を無給で引き受けるなど地方社会に奉仕することで名望家の地位を確立し、貴族とともに伝統的支配階層を形成しました。その名望家としての地位は土地所有そのものではなく支配体制への参画や慈善活動によってもたらされる名誉に基づくものです。ですから現代の英国において、「Lord of the Manor」の地位を得たからといって、当時のジェントリのような名望家になれるわけではありません。もちろん貴族にもなれません。

要するに「Lord of the Manor」というのは爵位でも貴族の地位でもなく、名望家の地位ですらなく、単に土地の領主としての地位しか意味していません。つまり、この手のサイトが実際に売っているのはただの土地に対する権利です。「Lord of XXXX」(「XXXX」はたぶん荘園として有名な地名なんでしょうね)の地位を売りますよ、というのは「XXXX」に存在する土地に対する権利を売りますよ、という、ただそれだけのことなのです。遠く離れた英国の、行ったこともない地域の、おそらくわずかな面積の土地の権利(しかもほとんど意味のない権利)を買って、一体、なんの意味があるのでしょうか。

英国政府も、この手の妙なビジネスに対して、警告は発しています。駐米英国大使館のサイトには以下のような注意喚起が掲載されていました。
"A manorial lordship is not an aristocratic title, but a semi-extinct form of landed property. Lordship in this sense is a synonym for ownership. It cannot be stated on a passport, and does not entitle the owner to a coat of arms."
(荘園領主というのは、貴族の称号などではなく、半ば消滅している土地所有の形態です。この意味でのLordshipというのは、所有者というのと同義です。この地位はパスポートに記載することはできませんし、紋章の所有権が与えられるわけでもありません。)
荘園領主というのは貴族の称号などではない、とはっきり言及しています。また、「半ば消滅している土地所有の形態」とも説明してあるとおり、荘園制度がとっくに消滅している現在、荘園領主の地位・権利など何の意味も価値もありません。

要は、「Lord」という単語の持つ多義性を巧みに利用して、(とっくに世の中から消滅している)単なる荘園領主としての意味しかない「Lord of the Manor」があたかも貴族の称号であるかのように誤解させるところが、この詐欺まがいビジネスのミソなのです。駐米大使館のサイトでこのような注意喚起が行われていたということは、米国でもこの手のサイトにだまされる人が結構いたと見えます。この辺の「Lord」がらみの事情というのは、英語のわからない日本人はもちろん、英語のわかる米国人でもよく理解していないということなのでしょう。

余談-「Lord」の使い方

上で述べたとおり、「Lord」は有爵者(貴族)に対する敬称として用いられますが、その用法は非常にややこしいので、以下にまとめておきます。

公爵以外の有爵者(侯爵・伯爵・子爵・男爵)の場合

「爵位名」の前に「Lord」をつけて呼びます。「姓」「名」にはつけません。19世紀後半の首相ディズレーリは功績により初代ビーコンズフィールド伯爵(Earl of Beaconsfield)に叙せられましたが、「ディズレーリ卿(Lord Disraeli)」とは呼ばず、「ビーコンズフィールド卿(Lord Beaconsfield)」と呼びます。トラファルガー海戦でナポレオンを破ったホレーショ・ネルソン提督は初代ネルソン子爵(Viscount Nelson)に叙せられたので、「ネルソン卿(Lord Nelson)」と呼ばれます。姓と爵位名が同じためややこしいのですが、この「ネルソン」は爵位名のほうのネルソンであって、姓にLordがついたのではありません。なお公爵には「Lord + 爵位名」を用いず、「Your Grace」「His Grace」と呼びます。

附随爵位を持つ公爵・侯爵・伯爵の嫡男・嫡孫の場合

英国の貴族は一人が複数の爵位を持つことが可能です。公爵・侯爵・伯爵が複数の爵位を持っている場合、本人は一番高位の爵位を名乗り、それ以外の附随爵位(従属爵位とも)を嫡男や嫡孫が「借用」して称号として名乗ります。あくまで借用であり保有しているわけではないのですが、呼称上は有爵者と同じになるので、彼らの場合も、爵位名にLordをつけて呼び、姓や名にはつけません。ウィンストン・チャーチルの祖父ジョン・スペンサー=チャーチルは第7代マールバラ公爵でした。その長男のジョージ・チャールズ・スペンサー=チャーチルは後に第8代マールバラ公爵になりますが、父ジョンの存命中は父の持つ附随爵位のひとつ「ブランドフォード侯爵(Marquess of Blandford)」を借りて称号にしていましたから、当時の呼び名としては「ブランドフォード卿(Lord Blandford)」でした。

有爵者の嫡男以外の息子の場合

父親の附随爵位を借用できるのは公・侯・伯爵の嫡男と嫡孫に限られます。よって、それ以外の有爵者子女たちは呼び名にすべき爵位を持ちません。そのため、彼らの場合は本名に敬称がつくことになります。公爵・侯爵の嫡男以外の息子(父親が附随爵位を持たない場合は嫡男も)の場合は「名」または「名・姓」の前に「Lord」をつけ、公爵・侯爵・伯爵の娘の場合は「Lady」、伯爵の嫡男以外の息子(父親が附随爵位を持たない場合は嫡男も)および子爵・男爵の息子・娘の場合は「The Honourable」をつけます。注意すべき点は、必ず「名」または「名・姓」の前につき、「姓」の前にはつかないということです。ウィンストン・チャーチルの父ランドルフ・チャーチルは公爵の三男(非嫡男)だったので本名に「Lord」をつけて「Lord Randolph Churchill(ランドルフ・チャーチル卿)」もしくは「Lord Randolph(ランドルフ卿)」と呼ばれました。「Lord Churchill(チャーチル卿)」とは呼ばれません。

表にしてみると、こんな感じでしょうか。

以上のような非常にややこしいルールがあるため、同一人物の呼び名の変化で混乱しやすい傾向があります。哲学者のバートランド・ラッセルの祖父は初代ラッセル伯爵のジョン・ラッセルという政治家ですが、もともと公爵家の三男でした。したがって、自身が伯爵に叙せれる以前は、公爵の非嫡男なので本名にLordをつけて「Lord John(ジョン卿)」もしくは「Lord John Russell(ジョン・ラッセル卿)」と呼ばれました。この時期の彼を「Lord Russell(ラッセル卿)」と呼ぶのは間違いです。しかし、1861年に「ラッセル伯爵(Earl Russell)」に叙せられて以降については、爵位にLordをつけるので、逆に「Lord Russell(ラッセル卿)」と呼ぶのが正しく、「Lord John Russell(ジョン・ラッセル卿)」と呼ぶのは間違いになります。姓と爵位名が同じために、このような事象が生じるわけですが、同一人物を同じ呼称で呼んでも、時期によって正しかったり誤りだったりするのですから、ややこしくて仕方ありません。この説明自体、はたして読んでいる方に伝わっているのかどうか、はなはだ不安です。

実は日本で・・・

閑話休題。結局、カネで爵位や貴族の称号を買う方法はないのか、と落胆した方、あきらめるのは、まだ早い。

実は、世界には、カネで買える爵位や勲章、栄典は結構あります。ただし、金額は決して手ごろではありません。以下、いくつかの例をあげます。

スコットランドの男爵

上で、英国の男爵をカネで買うことなど出来ない、と書きましたが、実は、英国の中でも、スコットランドの男爵称号は売買が可能です。価格は100万ポンド(約1億5千万円)以上だそうです。もちろん、カネがあるからと言って誰にでも売ってくれるわけではないでしょう。また、売買可能であるゆえに、スコットランドの男爵は貴族とはみなされないそうです。

カンボジアの勛爵

カンボジアでは国家に対する功労者に対して与える爵位として「勛爵」というものがあり、その最低条件は10万米ドル(約1千万円)以上の寄付だそうです。逆にいえばこれ以上の寄付をすれば勛爵をもらえる可能性があるわけです。スコットランド男爵に比べればハードルは低いのではないでしょうか。

日本の紺綬褒章

褒章は勲章と同じく栄典の一種ですが、勲章のような勲位を伴いません。勲章のように長年の功績を対象とするのではなく、一過性であっても顕著な功績であれば対象となります。紅・緑・黄・紫・藍・紺の6種類に分けられ、それぞれ対象となる功績が異なります。そのうち、紺綬褒章は「公益ノ為私財ヲ寄附シ功績顕著ナル者」が対象になります。具体的には、公的機関や公益法人などへの500万円以上の寄付をした個人、1000万円以上の寄付をした団体が主な対象です。なんと、カンボジアの勛爵よりもハードルが低いのです。

いろいろ見てきた結果、結局のところ、日本の紺綬褒章が一番、現実的だといえます。よその国の爵位を欲しがって詐欺まがいのサイトにカネをだまし取られるくらいなら、ぜひ、祖国日本のために寄付をして褒章をもらっていただきたいと思います。