氏(うじ)・姓(かばね)・名字(みょうじ)・実名(じつみょう)・仮名(けみょう)- 日本人の名前の歴史

2014年6月22日日曜日

文化 名前 歴史



子供のキラキラネームが話題になったりする昨今ですが、日本人の名前について知られていないことも多いので、このページでまとめてみようかと思います。

氏と姓

いきなりですがクイズです。

源頼朝は「みなもとよりとも」なのに、なぜ足利尊氏は「あしかがたかうじ」であって「あしかがたかうじ」ではないのでしょうか?

答えは、「源」は氏(うじ)ですが、「足利」は名字(みょうじ)だからです。

現在では、氏・姓・名字はどれもfamily nameのことを指すようになって、相互の区別がなくなっていますが、もともとは別のものなのです。

「氏(うじ)」というのは「本姓」ともいい、共通の祖先を持つ、あるいは共通の祖先を持つという意識のもとに結束した集団(氏族)が名乗る名称です。古代史にでてくる、「蘇我」「物部」「吉備」「大伴」「藤原」「源」「平」「橘」「紀」「菅原」「大江」などはみな「氏」です。これらは後で述べる「姓」とともに朝廷から与えられたものです。「蘇我」「物部」「吉備」「大伴」などは大和朝廷を支えた豪族がその根拠地の地名や朝廷内での職掌などからつけられた氏であり、「藤原」「源」「平」「橘」(この4つの氏は「源平藤橘」とまとめて呼ばれます)などは、天皇が功績のある臣下に特別に与えたり、諸皇子を臣籍降下させる際に与えたりした氏です。氏の後ろには「の」を入れます。「吉備真備」は「きびまきび」、「藤原道長」は「ふじわらみちなが」、「紀貫之」は「きつらゆき」です。

「姓(かばね)」も朝廷から氏族に対して与えられたもので、本来は大和朝廷内における各氏族の職掌や地位を示す称号で、蘇我氏の姓は「臣」、物部氏の姓は「連」などどいう具合でした。この時代は、「臣」の姓を持つ氏族の中の有力者が「大臣」、「連」の姓を持つ氏族の中の有力者が「大連」に任じられて大王(天皇)を補佐するなど、実際の政治上も意味のあるものでしたが、時代が下るとともに有名無実化していきます。その後、天武天皇が「八色の姓」という制度を定めて「真人」や「朝臣」など新しい姓を作って従来の「臣」「連」の上に置き、天皇に近く忠誠度の高い氏族にその新しい姓を与えることで他の氏族との差別化をはかりますが、次第に有力貴族の姓はみんな「朝臣」になってしまい(「源平藤橘」の姓はすべて「朝臣」です)、これも結局、あまり意味のないものとなり、姓は氏の単なる付属品のようなものになります。ただ、形式的には姓はずっと存続し、朝廷における公式文書で名前を記す際には名字ではなく氏と姓を用いました。たとえば、徳川家康ではなく、源朝臣家康(みなもとのあそんいえやす)というふうになります。

名字の誕生

時代の経過とともに、氏のほうも変質していきます。現在でもお金持ちや有名人になると親戚が増えるといいますが、古代においても、権力者や身分の高い人となんとかつながりたいということで、下級貴族や地方の豪族、武士たちが、あの手この手で有力貴族とつながりを持ち、それを根拠に有力貴族の氏姓を自分も名乗るようになります。有力氏族から妻を迎え、その女系のつながりによって自身と子孫もその有力氏族の氏姓を名乗ったり、有力貴族と主従関係を結んだことによってその貴族の氏姓を自称したりすることが広く行われるようになります。その結果、日本中の貴族・豪族・武士たちの氏は、源平藤橘など一部の有力な氏に集中することになってしまいました。こうなると、もはや、氏は共同体としての氏族集団をあらわすものではなくなり、氏とは別に自身が所属する血縁集団を示すものが必要になってきます。世の中、源氏だらけになってしまったので、「俺は源氏だ」と言っても「源氏なんてそこらじゅうにいるじゃないか、どこの源氏だよ」ということになるわけです。そこで、武士であれば自分の所領の地名を、公家であれば邸宅のある地名を、自身の家族の名前として称するようになります。これが名字(苗字とも書きます)です。たとえば、八幡太郎として有名な源義家の孫、源義康は上野国足利荘を相続したので「足利」という名字を名乗り、義康の異母兄である義重は上野国新田荘を開墾して「新田」という名字を名乗るようになります。これがそれぞれ足利氏と新田氏の祖です。

ただし、名字を名乗るようになったからといって、氏や姓がなくなったわけではありません。名字はあくまで私的なものであって、朝廷から与えられたものでも認められたものでもありませんので、正式には氏や姓を用いる必要がありました。のちに鎌倉幕府が成立すると、頼朝は御家人たちの所領にお墨付きを与える象徴として彼らの名字を登録して公認するとともに、「源」を名乗れるのは自身とその子孫、および門葉(血縁と功績により頼朝の一門と認められた者)のみと定め、それ以外の御家人はたとえ源氏一門であろうと「源」を名乗ることは禁じ、名字を名乗らせました。これにより名字も公的な意味合いを持つようになりましたが、それもあくまで幕府内部での取り決めであって、朝廷としてはあずかり知らないことです。従って、源氏の御家人が朝廷から官職をもらうときに限っては名字でなく「源」を名乗ることを認めました。そうしないと手続きが進まないからです。このことはずっと後まで続き、はるか後世の家康も、朝廷に対しては「徳川家康」とは名乗らず、「源朝臣家康」と名乗ったわけです。なお、上でも述べましたが、氏のうしろには「の」がつきますが、名字のうしろに「の」はつけません。

武士や公家だけでなく、庶民にも家があり、自らの血縁集団につける名前が必要でしたから、彼らもまた住んでいる地名やつながりのある武士の名字などから、名字を自称するようになります。江戸時代になると名字は武家の特権となり、庶民の名字は禁止されますが、それはあくまで公式な使用を禁じただけであって、彼らが私的に使用するのを完全に禁止するすべはなく、庶民の間でも少なからず名字は私称され続けました。そして、明治になると、近代化のため戸籍制度を整備する必要から、すべての国民が名字を持つことを義務付けられるとともに、その名字が戸籍に登録されることになりました。一方で氏・姓は公的に名乗ることが禁止され、消滅していきます。現在、自分の名字は当然みなさん知っているでしょうが、氏・姓がなんなのか知っている人は少ないはずです。

それでも氏は重要

上で述べたように、時代が下るとともに、氏は実態としては意味のないものになっていきますが、形式的な意味は持ち続け、それがために、場合によっては政治上重要な意味を持つことがありました。

たとえば、徳川家康は、今川家のもとを離れ三河で自立した後しばらく、藤原氏を称していたことがあります。これは三河国の統治の正統性を主張するため朝廷から「三河守」の官職を授けてもらおうと画策した際に、仲介役の公家から、「三河守に叙任されるためには藤原氏である必要がある」と指示されたのに従ったためです。この時代、藤原という氏も三河守という官職も形式的なものでしかなかったのですが、その形式が重要だったのです。その後、家康は藤原氏から源氏に氏を変更します。いつ変更したのかについては諸説あるようですが、遅くとも豊臣政権下ではすでに源氏を称することを公認されていたと考えられています。わざわざ変更したということはやはりそれなりの意味があったからでしょう。武家の棟梁を目指す上で藤原氏より源氏のほうが有利だと考えたのではないでしょうか。「清和源氏でなければ征夷大将軍になれない」というのは俗説ですが、鎌倉幕府を開いた頼朝も室町幕府の足利氏も清和源氏であり、「武家の棟梁は清和源氏が一番しっくりくる」という意識は武家の間にあったのではないかという気がします。もちろん武家の棟梁になるためには実力こそが重要なのはいうまでもありませんが、その地位をより確固たるものにするには「清和源氏」というブランドが必要だったのでしょう。実力のない人がブランドだけあっても何の意味もありませんが、実力のある人にブランドが加わると大きな意味を持つことがあります。本来の意味を失い形骸化したあとも、氏はそういうブランドとしての意味を持ち続けたのです。

ところで、その家康に天下を奪われたのは豊臣家ですが、この「豊臣」というのも、実は氏なのです。名字ではありません。勘違いしている人が多いのですが、秀吉は「羽柴」から「豊臣」に改姓したわけではありません。秀吉の名字は「木下」から「羽柴」に改めたあと、死ぬまで「羽柴」です。「徳川家康」という呼び方に合わせるのであれば秀吉のほうは「羽柴秀吉」でなければなりません。「豊臣秀吉」という呼び方にそろえるのなら、家康のほうは「源家康」になります。

「豊臣」という氏は、源平藤橘に次ぐ新たな氏として天皇から秀吉に授けられたものです。もちろんその構想はすべて秀吉の側から出ているわけで、朝廷と天皇はその要求に従っただけですが、名字と違って氏はあくまで天皇から授けられるものですから、天下人といえども勝手に新たな氏は名乗れないのです。ちなみに豊臣という氏とともに授けられた姓は源平藤橘と同じ「朝臣」です。

「豊臣」の氏を授けられる以前は秀吉の氏は「藤原」でしたが、さらにその前は「平」でした。秀吉の氏の変遷を見ていくと、彼が自身の権威を確立するために苦心した過程がわかります。秀吉は家康以上に氏の持つブランドとしての価値を利用しようとしました。最初に平氏を称したのは、主君の織田信長が平氏であったのに倣ったものです(上で述べたように主従関係を根拠にして主君の氏を家臣も名乗るということは平安時代からおこなわれていたことです)。しかし、本能寺の変でたおれた信長の後継者に躍り出て天下人の地位が見えてきたころ、自らの政権に権威をもたらすために氏の変更が必要になりました。巷間伝えられるところによると、秀吉はまず、征夷大将軍になるために、信長に京都を追放されて鞆に滞在していた室町幕府最後の将軍足利義昭に自らを猶子(財産の相続権のない養子)にしてもらって源氏になることを画策したが断られ、そこで方針を転換して、前関白近衛前久の猶子となって藤原氏となり、関白の地位を手に入れたとされます。足利義昭に猶子にしてもらうことを断られたという話は江戸時代になって林羅山が言い始めたのだそうで、かなり疑わしい話のようですが、関白になるために藤原氏になったのは間違いない事実です。摂政関白になれる家は藤原氏の中でも限られた家(五摂家)だけでしたので、平氏のままでは絶対に関白にはなれなかったのです。

氏を藤原氏に変更することで晴れて関白になれた秀吉ですが、彼はそれだけでは満足しません。関白は確かに高い地位ですが、歴史上、関白になった人は山ほどいます。秀吉としては自身の政権を盤石のものにするために、もっと権威付けが必要だと考えました。そこで「豊臣」という新たな氏の創始者となったのです。臣籍降下ではなく、個人の功績によって新たな氏を授けられるとなれば、藤原氏の祖、中臣鎌足以来の偉業です。これによって他のあまたの武家や公家から隔絶した権威を手にしようとしたわけで、その目論見はある程度成功したと思われます。秀吉は形骸化したはずの「氏」がなおも持ち続ける重要性を自らの権威付けに最大限利用したといえます。

なお、一般に「豊臣秀吉」は「とよとみひでよし」と読まれますが、「豊臣」は氏ですから、本来そのあとには「の」がつくはずで、「とよとみのひでよし」と読むべきだということになりますが、一般におこなわれていません。

実名(じつみょう)と仮名(けみょう)

・書くための名前:実名(じつみょう)

family nameの話はこれくらいにして、ここからはいわゆる「下の名前」の話です。

江戸時代まで、武家の男子は現在の下の名前にあたるものを2つ持っていました。「実名(じつみょう)」と「仮名(けみょう)」です。たとえば、徳川家康の場合、「家康」というのが実名、仮名は「次郎三郎」といいます。実名は「名乗(なのり)」「真名(まな)」「諱(いみな)」ともいいます(このうち「諱」という漢字は本来、亡くなった人の名のことなのですが、日本では誤解されて実名のことを意味するようになってしまいました)。実名はイメージのよい漢字2字ないし1字からなり、それを訓読みします。実名はその人の正式・公式な名前であり、それだけに非常に大事にしなければならないものなので、他人がめったに口にしてはならないものでした(このような慣習については、漢字とともに支那から来た、という説と、漢字文化圏に限らず古くは世界的にみられた慣習であって日本にももともとあったものだという説とがあります)。従って、他人がその人を実名で呼ぶことはまずありません。主君や親、師匠など明らかに上の立場にある人はその人を実名で呼んでもよかったのですが、実際にはそのような場合でも実名で呼ぶことはあまりなかったようです。織田信長は、形式上は同盟相手、実質上は部下であった徳川家康を「三河殿」(家康は三河守だったので)と呼んでいました。実質上は部下とみなすのであれば実名で「家康」と呼んでもよかったでしょうが、さすがの信長もそれは気が引けたのでしょう。一方で同じような立場にあった浅井長政については「長政」と実名で呼んでいる書簡が残っています。信長からすれば妹を嫁がせて義理の弟になった以上、身内だから気を使う必要はないということだったのでしょうか。でも、呼ばれるほうからすると気持ちのいいものではなかったでしょう。たかが呼び名、されど呼び名で、後の浅井の離反にも多少の影響を与えたような気がしてなりません。

実名は基本的には他人がその人を呼ぶための名前ではありません。実名が使われるのは、本人が公的な文書に署名するときや、公的な手続きで当人を指定するとき(朝廷からの官職の授与など)に限られます。つまり実名は口で言うための名前でなく、書くための名前です。そのため、どう読むかということはあまり重視されません。なにしろ実際に口に出すことがないのですから。もちろん、正しい読み方はちゃんとあり、本人はきちんとわかっています。でもその正しい読み方が口に出されることがないので、本人と近しい人たち以外には、どう読むのが正しいのかわからないことが多く、それで特に困ることもなかったのです。

・呼ぶための名前:仮名

実名は署名のための名前であって呼び名として使えないため、それとは別に他人がその人を呼ぶための名前が必要になりますが、それが「仮名(けみょう)」です。仮名は「通称」ともいい、実名とは反対に声に出して呼ぶための名前で、書くための名前ではありません。そのため、漢字表記に揺れのある場合が多々あります。上に家康の仮名を「次郎三郎」と書きましたが、これは「二郎三郎」と書いても間違いではありません。大久保利通の通称は「イチゾウ」ですが、これを「市蔵」とも「一蔵」とも書きます。伊藤博文は通称を何度か変えていますが、「トシスケ」であったときに用いた漢字は「利助」「俊介」「俊輔」とさまざまであり、このうちの「俊介」「俊輔」が「シュンスケ」とも読めることから、「春輔(シュンスケ)」という通称も用いるようになります。仮名は実名のようにかしこまったものではないので、かなり融通がきいたのです。

仮名の付け方にはいくつかの系統があります。

<排行名>

「排行」とはもともと支那で兄弟順を示すもので、一番上が「大郎」、次が「二郎」、以下、「三郎」「四郎」・・・と続いていきます。なお、ここで兄弟というのは父方の従兄弟も含んでいます。杜甫は二番目だったので「杜二郎」、李白は「李十二郎」です。日本にもこれが伝わって仮名として使われるようになります。ただ、日本では従兄弟は順番に含まず、「大郎」は「太郎」や「一郎」になり、「二郎」は「次郎」とも書くようになりました。また家康の「次郎三郎」のように親の兄弟順と本人の兄弟順を組み合わせたりもするようになりました(「次郎三郎」とは、「次郎の三男坊」の意味で、父親が祖父の次男で本人がその父親の三男である、ということです)。さらに太郎や次郎だけでは、そこらじゅうに同じ通称の人だらけになってしまうので、その上に何かつけることも多くなります。古くは八幡太郎(源義家)、相模太郎(北条時宗)、幕末でいえば麟太郎(勝義邦=勝海舟)、益次郎(大村永敏)などがそうです。そしてこの変形として末尾の「郎」がなくなったものがあり、与七(直江兼続)、源五(赤穂浪士の大高源五)などはこれにあたります。

<官職由来>

朝廷からしかるべき官職を授けられた人に対しては、その官職でその人を呼ぶことになります。れっきとした官職を持っている人を仮名で呼ぶのは実名で呼ぶのと同じように無礼にあたります。現代の会社でも、役職者は当然その役職名で呼ぶでしょう。それと同じことです。官職名でその人を呼ぶのは仮名とはまた別なので、後であらためて説明します。
一方で、実際には朝廷から官職を授けられていないのに、勝手に官職名や役所名、官職名っぽい名前を自称することが広まった結果、それらが仮名として普及していきます。官職由来の仮名には以下のようなものがあります。

~左衛門、~右衛門、~左兵衛、~右兵衛、~兵衛
律令制のもとでは、宮城を警護する役所に「左衛門府」「右衛門府」「左兵衛府」「右兵衛府」などがあり、徴用によってそれらに配属された人が、任を終えて帰郷したあと、自身の所属した役所名をもとにした名前(左衛門府に配属されていた人がそれにちなんで「吉左衛門」など)を名乗ったのが始まりといわれ、やがてそれらの人の真似をして仮名にする人が増えていき、実際の経歴とは関係のない仮名の類型となっていったと考えられています。「天下のご意見番」大久保彦左衛門や剣豪柳生十兵衛、赤穂浪士の堀部安兵衛などみなこの仲間です。

~之介、~之助、~之進、~之丞
「介」「助」「進」「丞」などはいずれも律令制における四等官の名称です。四等官というのは、律令制で定められた各役所における中核職員について「長官(かみ)」「次官(すけ)」「判官(じょう)」「主典(さかん)」の4つの等級で序列を定めたものです。各等級に相当する名称はそれぞれの役所で異なっており、「介」は地方行政単位である「国」の次官、「助」は「図書寮」「大学寮」「主計寮」など「寮」のつく役所の次官、「進」は「修理職」「左・右京職」など「職」のつく役所の判官、「丞」は「式部省」「刑部省」など「省」のつく役所の判官です。これらを仮名に使用するのも、上の「左衛門」などと同様に、実際にその職についていた人から始まり、その真似が広まっていったと考えられます。

<国名>

地方行政単位である「国」の名を仮名として用いるのも一般的でした。おそらく一番有名な例は剣豪の宮本武蔵でしょう。「武蔵」は現在の東京都と埼玉県をあわせた地域にあたる国の名です。国名を仮名として用いるのも実際の官職名の真似から始まったと考えられます。国の長官は「守」で、国名とあわせて「○○守」と呼ばれますが、この「守」はしばしば省略されて国名だけでよばれることがあります。江戸南町奉行の大岡忠相は「越前守」ですが、「守」を省略して「大岡越前」と国名だけで呼ばれます(ドラマのタイトルも「大岡越前」です)。これを真似したのが、国名を使った仮名なのです。宮本武蔵は武蔵守に叙任されたわけではありませんから、この「武蔵」は武藏守の省略ではありません。ただの仮名です。

<その他の官職・役所由来の仮名>

上記以外にも、朝廷の官職・役所由来の仮名はたくさんあります。キリシタン大名で有名な高山「右近」(←右近衛府の略)、忠臣蔵の大石「内蔵助」(←内蔵寮の次官)、幕末薩摩藩の小松「帯刀」(←帯刀舎人)などがみなそうです。さらには、実際には存在しないがいかにもありそうな官職・役所風の仮名というのもあります。幕末会津藩の家老西郷「頼母」、幕末の思想家橋本「左内」エレキテルで有名な平賀「源内」などがこれにあたります。

・官職による呼び名

上でも述べたように、朝廷から官職を授けられた人のことはその官職名で呼びます。れっきとした官職のある人を仮名で呼ぶのは実名で呼ぶのと同じくらい失礼にあたります。
ひとことで官職名で呼ぶといってもいろいろなバリエーションがあります。多いのが、所領や根拠地の地名と官職を組み合わせた呼び名です。徳川家康は大納言時代は駿河大納言、左近衛大将時代は駿府左大将とよばれていましたし、幕末の京都守護職松平容保は会津藩主で左近衛権中将であったことから会津中将とよばれていました。また、官職名を中国風に言い換えて呼ぶことも多くみられました。武田信玄の弟、武田信繁は官職である左馬頭を中国風に言い換えた「典厩」と呼ばれますし、「水戸黄門」の「黄門」も中納言の中国風名「黄門侍郎」を省略したものです。徳川家康のことを「内府」というのも内大臣を中国風に呼んだものです。

官職名と仮名の境目はちょっとややこしいところがあります。忠臣蔵でいえば、主君の浅野「内匠頭」は正式な叙任を受けた官職名ですが、家老の大石「内蔵助」は朝廷から任命されたわけではなく、ただの仮名です。仮名の多くが官職名の模倣から生まれたこと、仮名も官職による呼び名も実名を避けてその人を呼ぶための名という点で共通していることから、両者は密接不可分な関係にあるといっていいでしょう。

明治以降の実名と仮名

明治維新によって七百年つづいた武士の世が終わり、日本が近代化を迫られるに及んで、名前をとりまく状況も一変します。明治5年5月、明治新政府は「従来通称名乗両様相用来候輩自今一名タルベキ事」という太政官布告を出し、実名と仮名を併用することを禁じ、どちらか一方だけを自身の名前として選択して戸籍に登録することを求めました。どちらか一方にしろ、と言いながら、実名と仮名のどちらにするべきかは示さなかったため、どちらを選ぶかは個人の判断に任されました。大久保利通は仮名の「市蔵」を捨て、実名の「利通」を選択したので、大久保市蔵でなく大久保利通として歴史に残っています。反対に板垣退助は実名の「正形」を捨て、仮名の「退助」を選択しました。日露戦争の登場人物でいえば、連合艦隊司令長官の東郷平八郎は実名の「実良」を捨て、仮名の「平八郎」を選択したのに対し、満州軍総司令官大山巌は仮名の「弥助」ではなく、実名の「巌」を選択したわけです。もうすこし若い世代では、東郷が「智謀湧くがごとし」と評した作戦参謀の秋山真之は件の太政官布告のときはまだ子供でしたが、おそらくは親の判断で仮名の「淳五郎」ではなく実名の「真之」を登録しました。このようにして実名と仮名を持つ時代は公式には終わりを告げましたが、両者の使い分けがこの時点で完全になくなってしまったわけではありません。あくまで公式な名前をどちらにするかを決めただけであり、それ以外の名前で呼ぶこと、呼ばれることを禁止したわけではないからです。戸籍上は「秋山真之」であっても、近しい人たちは実名の「真之」ではなく、仮名の「淳五郎」で呼んだはずです。実名で呼ぶことは失礼という感覚は長い歴史のなかで染み付いたものですから、そう簡単に拭いさることはできなかったでしょう。

これ以降、実名と仮名の区別はなくなり、人々は単一の「名」を持つことになりましたが、その名のつけかたは、実名風のものと仮名風のものにわかれることになります。歴代の総理でいえば、吉田茂、芦田均、大平正芳、鈴木善幸、中曽根康弘、竹下登、細川護煕、羽田孜、野田佳彦などは実名風のもの、これに対し、仮名風のものは、幣原喜重郎、岸信介、池田隼人、佐藤栄作、田中角栄、宮沢喜一、橋本龍太郎、小渕恵三、麻生太郎などです。現在の安倍総理の「晋三」は仮名風です。上で述べたように、一や三など漢数字で終わる名前は排行名の末尾の「郎」が省略されたものです。

われわれ日本人の感覚として、この実名風・仮名風のふたつの系列のどちらかに属する名前は、人名としてふさわしいものと受け入れることができますが、それらから逸脱した名前に対しては多くの人が違和感を感じてしまうようです。いわゆるキラキラネームに対して一部の人々が口にする嫌悪感も、この辺からきているのではないかと思います。

Originally published at www.hankeidou.net on June 22, 2014.