「早起きは三文の徳」の由来とされる「早起三朝當一工」について

2020年4月5日日曜日

ことわざ 文化


「早起きは三文の徳」という諺を題材にした漢詩を作った際に、この諺について少し調べたのですが、その過程で、WEBサイトというものはいかにいい加減なものが多いか痛感させられたので、多少の怒りをこめてこの記事を書きます。

『宋樓鑰詩』という書物??

「早起きは三文の徳」という諺についてWEBで調べると、この諺は中国の「早起三朝當一工」という成句に由来するのだという説明をしているサイトがたくさん見つかります。僕自身はこの中国の成句を今回初めて知りましたし、この説の真偽のほどを判断できるだけの知識を持ち合わせていません。したがって、この記事は、「早起きは三文の徳」が中国由来かどうかという点を検証しようというものではありません。

僕が腹が立ったのは、これらのサイトが、まるでコピーしたかのように、揃いも揃って、おかしな記述をしているからです。

どんな記述なのか、実際の文章をご覧ください。引用元へのリンクはあえて張りません。

「早起きは三文の徳」の由来・語源は、中国の『宋樓鑰詩』という書物とも言われます。
宋樓鑰詩では、「早起三朝當一工」という記述があり、3日早起きすれば、一人前の仕事になるとの事です。

中国の古い「宋樓鑰詩」というのに書かれていた「早起三朝當一工」という文言から来ているそうです。

「早起きは三文の徳」の由来・語源は、中国の『宋樓鑰詩』という書物にあります。『宋樓鑰詩』では、「早起三朝當一工」という記述が残されており、「3日早起きすれば、一人前の仕事になる」という意味でした。

中国の「宋樓鑰詩」という本に書かれていた「早起三朝當一工」という文言が由来だと言われています。「早起三朝當一工」は、三日間早起きすれば、一人分の仕事になるという意味です。

早起きは三文の徳(はやおきはさんもんのとく)とは、中国南宋の詩人・樓鑰の本「宋樓鑰詩」の中にある、「早起三朝當一工」という一文を由来とすることわざです。


キリがないのでこの辺でやめておきますが、似たり寄ったりの頓珍漢な文章が検索結果にうんざりするほど挙がってきます。

どのサイトの作者も、「『宋樓鑰詩』という書物(本)」があると思っているようですが、そんな書物などありはしません。僕が今回調べてみたところ、南宋の楼鑰という人物の《午睡戲作》という七言絶句に「早起三朝當一工」という句があります。

早起三朝當一工 早起三朝 一工に当たるも
老來貪睡不相同 老来 睡を貪ること相ひ同じからず
偶然一次五更起 偶然一次 五更に起くるも
卻用重眠到日中 却って重眠を用って日中に到る

つまり「『宋樓鑰詩』という書物」ではなく、「宋の樓鑰が詠んだ詩」です(ちなみに樓は楼の旧字体です。念のため)。おそらくこれらの有象無象のサイトの起源にあたるサイトの作者が、どこかに「宋樓鑰詩曰早起三朝當一工(宋の樓鑰の詩に曰く、早起三朝當一工と)」とでも書いてあったのを見て「『宋樓鑰詩』という本に”早起三朝當一工”と書いてあるんだな」と勘違いして記事にし、あとは後続のサイトもみなそれを鵜呑みにして得意気に書いているのでしょう。「親亀こけたら皆こけた」というやつです。

「『宋樓鑰詩』という書物」か「宋の樓鑰が詠んだ詩」かなんてどうでもいいじゃないか、という人に対しては、もはや何をかいわんやです。この両者の区別がつかない人に出典を語る資格などありませんし、語ってほしくありません。

上で挙げたサイトの多くは内容が似通っており、アクセス数を稼ぐためだけに粗製乱造されたサイトと推察されますが、SEOに優れているらしく、検索結果の上位を占めています。親亀といっしょに揃ってこけているくだらないサイトが検索上位を占めてしまうところがWEBの問題点であり限界なのでしょう。いや、WEBではなく、検索エンジンの、というべきでしょうか、Google先生。

楼鑰の詩が先か、ことわざが先か

さて、「早起三朝當一工」について調べると、楼鑰の詩とは別に、「客家のことわざ」という説明も見つかります。諺としては「早起三年當一冬」と対になっていて、現代でも一般に使われているようです。

となると、楼鑰の詩と客家のことわざとの関係が気になりますが、おそらく楼鑰は諺を引用して起句にしたのだと思います。そう考えたほうが詩の意味と構成を理解しやすくなります。

「三日早起きして得られる時間は一日分の仕事に相当する」と言うが
年老いてからは眠たくて仕方がなく若いころと同じようにはいかないものだ
たまたま一度明け方に目が覚めたものの
再度眠ってしまい、早起きどころか、かえって真昼まで眠ってしまった

楼鑰(1137~1213)は、時の権力者韓侂冑に異をとなえて官を辞した直言の士で、韓侂冑暗殺後には官界に復帰して参知政事までのぼった人物ですが、この詩からはそんな面影は微塵もうかがえず、ゆるい雰囲気と洒脱なユーモアにあふれていますね。