天皇の生前退位の歴史を振り返る
先日、天皇陛下が生前退位の意向を示されたという報道がなされ、様々な議論を呼んでいます。実際に退位の意向を示されたのかどうか、事実は我々には知る由もありませんが、この際、天皇の生前退位の歴史を振り返ってみるのも無駄ではないかと思います。
最初と最後の生前退位
乙巳の変(左上の女性が皇極天皇) |
歴史上、初の天皇の生前退位は、645年、乙巳の変(大化の改新)直後に、皇極天皇が同母弟の軽皇子(孝徳天皇)に譲位した時です。退位した皇極天皇はその後、孝徳天皇の死去にともない、再度、天皇に即位し、斉明天皇となります。このように一度退位した天皇が再び即位することを重祚といいますが、斉明天皇は日本史上初の重祚した天皇でもあります。
ちなみに天皇は生前退位すると「太上天皇(上皇)」となりますが、実は皇極天皇の時代にはまだ「天皇」の称号も「太上天皇」の称号も用いられていなかった(「天皇」が用いられるようになるのは天武天皇の時代(672~686年))ため、皇極天皇は史上初の上皇ではありませんでした。史上初の上皇は697年に文武天皇に譲位した持統上皇です。
現在までのところ、史上最後の生前退位は文化14(1817)年に仁孝天皇に譲位した光格天皇です。これ以降、生前退位した天皇は現在までいません。明治以降は制度的にも天皇の生前退位は認められなくなりました。
生前退位の理由
(1) 「天皇の死」を避けるため-場合によっては「没後退位」
史上初の上皇、持統上皇(第41代天皇)から最後の上皇、光格上皇(第119代天皇)まで59人が生前退位して上皇となっています。つまり79人の天皇のうち59人が生前退位しているわけですから、かなり多いように思えますが、実はこの中には亡くなる直前に退位した天皇も多く含まれています。亡くなる直前に退位しなければいけない理由は、日本独特の「ケガレ」を忌避する文化にあります。「死」はケガレの源と考えられていたため、天皇が在位中に亡くなってしまうと、天皇という地位そのものがケガレてしまうとされ、そのような事態を避けるため、天皇が亡くなりそうになると退位・譲位して上皇になってから亡くなっていただくことにしたわけです。醍醐天皇、一条天皇、後朱雀天皇などみなこの例です。ただ、何事も予定通りにはいかないことが多いもので、譲位の手続きが間に合わずに容態が急変して亡くなってしまう場合もありました。そういう場合でも亡くなったことを隠して譲位の手続きを完了した上で、上皇として亡くなったことにしたのです。平安時代の後一条天皇や江戸時代の後桃園天皇などがこれに当たります。こうなるともはや実際には生前退位ではなく「没後退位」なのですが、形式上は生前退位したことになっているのです。(2) 権力者からの強制-「権威」と「権力」の抗争
天皇が日本の歴史を通じて最高の権威であったことは間違いありませんが、実際の政治権力を握っていた時期はそれほど長くはありませんでした。ほとんどの時代、実際の政治権力を保持していたのは天皇以外の者であり、それは蘇我氏であったり、藤原摂関家であったり、上皇であったり、征夷大将軍であったり、執権であったり、織田信長であったり豊臣秀吉だったりしました。彼らの天皇との関わり方はそれぞれ異なるものでしたが、場合によっては自分の意のままに天皇を交代させようとした者もいました。古代の蘇我氏の場合は、崇峻天皇を殺害してしまいましたが、さすがに臣下が天皇を弑逆するというのはこれ以外に例がなく、代わりに退位を強制するという手段を取ったわけです。史上初の生前退位となった645年の皇極天皇の退位も、乙巳の変で蘇我氏を滅ぼして実権を握った中大兄皇子の意向がはたらいていたと考えられます。皇極天皇は中大兄皇子にとって実母ですが、蘇我氏の専横を許していた皇極天皇を続投させるわけにはいかなかったのでしょう。
平安時代、藤原氏の摂関政治が定着すると、自らの孫にあたる皇子を天皇に即位させて外戚の地位を得るために現天皇に退位を迫るということが横行するようになります。「この世をばわが世とぞ思」っていた藤原道長は娘の彰子が産んだ敦成親王を即位させるため、三条天皇に退位を迫りました。三条天皇は抵抗しましたが、眼病が悪化したこともあって抗しきれず、敦成親王に譲位しました。敦成親王は即位して後一条天皇となり、道長は念願の摂政となります。
院政の時代には、天皇家の家長たる「治天の君」の意向によって天皇の首がすげかえられました。この時代、天皇は「東宮(皇太子)のごとし」と評され半人前扱いでした。鳥羽上皇は寵愛する美福門院(藤原得子)の産んだ皇子(近衛天皇)を即位させるため、同じく息子ではあるものの待賢門院(藤原璋子)との間の子である崇徳天皇に退位を強制しました。後の保元の乱につながる皇室内の亀裂がここから始まっていったといわれています。
鳥羽上皇(左)と崇徳天皇(右) |
また鎌倉時代の後鳥羽上皇は長男である土御門天皇の温和な性格が物足りなかったため退位を迫り、激しい気性が自らに似ている三男の順徳天皇を即位させました。そしてこの後鳥羽・順徳両上皇の父子が鎌倉幕府打倒を目指して失敗する承久の乱を引き起こすことになります。なお、順徳天皇の後を継いで即位していた懐成親王は承久の乱後の処理により在位3ヶ月で「廃位」されました。「廃位」の場合は退位と異なり、即位そのものが取り消され、歴代の天皇として認められません。ただし、懐成親王は明治になって天皇として認められることになり「仲恭天皇」と追号されました。
後鳥羽上皇(左)・順徳上皇(右) |
承久の乱ののちは、武家政権の承認なしに皇位継承をおこなうことは不可能となり、事実上、皇位決定権を武家が握ることになりますが、武家と朝廷の力関係、あるいは武家政権および朝廷双方の内部対立など様々な要因が絡み合うこととなり、すべての場合に武家政権の思い通りになったわけではありません。戦国の覇王織田信長も、時の正親町天皇に何度も譲位を迫ったものの天皇が最後まで拒絶したため実現しなかったと言われています(ただ、逆に正親町天皇が譲位を望んだが、費用などの面から信長が同意しなかった、という説もあります)。
(3) 天皇自身の希望による退位-「サプライズ退位」も
江戸時代までは生前退位が普通におこなわれていることであったため、天皇自身の希望による退位も少なくありませんでした。理由は、上皇となって院政を敷くため、退位して休養や治療に専念するため、何らかの抗議の意思を示すため、などいろいろです。ただ、天皇の退位ともなれば、いくら本人が希望したからといって、すぐに実行というわけにはいきません。退位という事態は自動的に次の天皇の即位を意味し、さらに次の皇太子も立てなければならず、それぞれについてきちんとした儀式を取り行わなければならないため、莫大な労力と費用が必要となるわけで、各方面への根回しと調整をおこなった上で実際の退位の段取りに入るのが通常です。特に武家政治の時代になると、退位にともなう費用は武家政権が負担するのが慣例となり、したがって武家政権の承諾を得ることが必須となります。ところが、このような事前調整を無視して退位を強行した例があります。江戸時代初期の後水尾天皇です。後水尾天皇 |
後水尾天皇は慶長16(1611)年に父の後陽成天皇から譲位されて即位しました。即位後、江戸幕府は大坂の陣で豊臣家を滅ぼして支配体制を強化し、朝廷に対しても禁中並公家諸法度を制定してその行動を幕府の管理下に置き、朝廷が何かを決定する際には幕府の承諾を必要とする制度を確立していきました。
幕府は後水尾天皇に対し即位直後から2代将軍秀忠の娘和子の入内を申し入れ、天皇もこれを受け入れましたが、大阪の陣や大御所家康の死、さらに後陽成上皇の崩御などが重なり延期が続き、その間に、天皇は四辻与津子(およつ御寮人)という女官を寵愛し二人の間には皇子・皇女が生まれてしまいました。このことが発覚すると幕府は激怒し、天皇側近の公卿の処罰と四辻与津子の追放を強制した上で、和子の入内を強行しました(1620年)。
さらに1629年には、紫衣(朝廷が勅許により高徳の僧侶に与える紫色の法衣)の授与について幕府に事前の相談がなかったことを理由に、後水尾天皇が与えた紫衣を僧侶から取り上げることを決定し、反抗した僧侶を流罪にするという「紫衣事件」が起こり、天皇は幕府によって勅許を踏みにじられるという屈辱を受けます。
度重なる幕府の横暴に反発した天皇は紫衣事件が起きた1629年の11月、幕府への通告をしないまま、突如、皇女興子内親王(徳川和子の娘、明正天皇)に譲位します。事前に「密勅」を受けていたごく一部の側近を除いて、関白以下の公卿たちも何も知らされないままに、当日の朝、突然呼び出しを受けて参内し、そこでいきなり「本日、御譲位おこなわるべし」と告げられるという、前代未聞のサプライズ退位でした。
この異例の譲位について京都所司代から報告を受けた幕府は驚愕します。朝廷への統制を強化し、ようやくそれが確立したと思っていた幕府にとって、自らの承諾を得ないで行われた譲位は当然認められるものではありませんでした。その気になれば、力ずくで譲位を取り消させることも可能ではあったでしょうが、そんなことをすればかえって事が重大化し、天皇と朝廷の存在感が増してしまうことになりかねません。江戸幕府の一貫した方針は、天皇と朝廷の存在をできるだけ民衆から隠すことにありました。天皇という、将軍様よりも上の権威が存在することを民衆が認識してしまうと、将軍と幕府の権威が低下してしまうからです。したがって、この件に関しても幕府はなるべく事態が表面化しないよう、非公式のルートで情報収集と朝廷工作を進めて譲位のもみ消しを図ります。しかし、後水尾上皇とその周囲の結束が意外に固く、穏便に譲位を取り消させることはかなわないと悟った幕府は最終的にこの譲位を追認します。思い通りに譲位をなしとげた後水尾上皇は、その後50年にわたって上皇として君臨、延宝8年(1680年)に85歳という長寿(当時、歴代最長記録。その後、昭和天皇による記録更新があり、現在では歴代2位)で亡くなります。
生前退位の歴史を踏まえて
様々な生前退位の例を見てくると、そこには天皇本人も含め関係各者の思惑が絡み合っていることがわかります。現在、生前退位の法制化に懸念を示す人たちの意見として「時の政府の意向で退位を強制されたり、天皇本人が政治的意向をもって退位したりする危険がある」というものがあります。歴史上の退位の例を見れば確かにその懸念には一理あります。一方で「現在の象徴天皇に政治的な権能は一切ないのだから、政治的な意向でその地位を奪ったり放棄したりする懸念はない」という意見もありますが、それはどうでしょうか。江戸時代の天皇には政治上の権力はなく、当時の政府である幕府の統制下にありました。その意味では現在の象徴天皇に近いものがあります。さらに当時の天皇は、上述のとおり、幕府の意向で完全に民衆の目から隠されていました。現在、マスコミを通じて国民が日常的に天皇や皇室の動向を目にすることができるのとは大違いです。そのような当時の天皇でさえ、後水尾天皇のサプライズ譲位のように幕府を揺さぶることができました。結局のところ、政治上の権力があろうがなかろうが、天皇に唯一無二の「権威」がある以上、それを政治的に利用することは可能であり、その危険は常にあるのです。「政治的な退位」を防いだ上で生前退位を法制化するとなると、退位の理由を健康上の問題に限定することが考えられますが、そうなると、それを診断する医師は誰が指定するのか、政府が指定するとしたら、政府や特定の団体などがその医師になんらかの働きかけをする可能性はないのか、そもそもどの程度の健康問題であれば退位が認められるのか、などなど検討しなければいけないことが次々と湧いてきます。また、天皇の生前退位が認められるのであれば皇位継承権者についても同様に辞退が認められる必要があります。そうしないと、「退位するために即位する」という奇妙な事態が生じる可能性があるからです。
いろいろと考えてくると、生前退位の法制化にはかなりの困難が伴いそうです。1年や2年では到底無理なのではないでしょうか。ヨーロッパの君主国などでは生前退位が広く行われているようですが、それらの国の君主と日本の天皇を同列に論じることはやはり無理なのかもしれません。
恒久的な「生前退位制度」の制定ではなく、今上陛下の今回の事例に限定した特別措置法のようなものが制定可能であれば、比較的早期に退位できるようになるかもしれません。そのような法律を制定することが法的に問題ないのかどうか、正直、私にはわかりません。ただ、生前退位が問題になるのはそう頻繁にあることではなく、次に問題になる頃には、医療も想像がつかないほど進歩し、生存寿命と健康寿命の間に差がなくなっている可能性があるので、生前退位の制度化はそれに費やされる労力ほどには意味がないような気がするのです(生存寿命と健康寿命が完全に一致すれば、健康上の問題による生前退位が必要になることはなくなります)。したがって恒久的な制度改変の議論に時間を費やすよりも、摂政制度の活用も含めて、とりあえず、今回の事例についてなるべく早く解決がなされる道を探るのが妥当ではないかと個人的には思います。
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