書名

『NHKカルチャーラジオ 漢詩をよむ 漢詩の歳時記【春夏編】【秋冬編】』(電子書籍版)

著者

赤井 益久

刊行

NHK出版 2024年03月25日・2024年09月26日発行

メモ

NHKカルチャーラジオ「漢詩をよむ」の2024年度テキストです。この年度は「漢詩の歳時記」と題し、1年を通じて放送時の季節に合わせた詩を紹介していくスタイルでした。したがって、カルチャー番組のテキストであると同時に、歳時を詠んだ漢詩のアンソロジーとしても楽しめるようになっているわけですが、一方で、その特徴ならではの編集の難しさも想像できます。

属性も知識も多様な番組聴取者が読者ですので、その点を考慮した過不足ない解説が求められますし、詩の題材はもちろん、作者や時代についてもバランスが求められます。また、知名度についても配慮が必要です。誰もが知っている詩ばかりではわざわざ紹介する意味がありませんし、といって有名どころの詩を取り上げないと「この題材でこの詩を取り上げないのはどういうことだ」というクレームが来るかもしれません。

このテキストではそれら各種のバランスが非常によく取られており、苦心のほどがうかがわれます。日本では唐・宋代の詩は多く知られていますが、元代以降についてはあまり読まれることがありません。このテキストでは元代から清代までの詩も積極的に取り上げられていて、唐・宋代も含めて満遍なく鑑賞することができます。番組テキストとしてだけでなく、通常の書籍としての読書にもたえうるものだと言えるでしょう。ただ、これは番組の方針なのかよくわかりませんが、日本人の漢詩が一切取り上げられていないのは個人的には不満です。

さて、以下は2点ほど内容の瑕疵を指摘しておきます。

まず第十回で紹介されている南宋の劉子翬《老農》について。原詩は以下のとおり(仮名遣い等はテキストの表記による)。

山前有老農(山前に 老農有り)
給我薪水役(我に給す 薪水の役)
得銭径沽酒(銭を得れば 径ちに酒を沽い)
酔臥山日夕(酔いて臥す 山日の夕)
忘形与之語(形を忘れて 之と語れば)
妙理時見益(妙理 時に益せらる)
志士多隠淪(志士 多く隠淪し)
欲学慙未識(学ばんと欲して 未だ識らざるを慙づ)

第2句「給我薪水役(我に給す 薪水の役)」について、「薪水」を「俸禄を言う」と注釈し、この句を「私に生活の糧をもたらしてくれる」と訳しており、放送でも「この老夫こそ私に俸禄を与えてくれる人である、と言っています」と解説していましたが、明らかに誤訳です。

俸禄というのは要するに給料です。この句の主語は詩題にもなっている「老農」ですが、年老いた農夫が士大夫たる作者にいったい何の給料を払うというのか、全く意味不明です。

「薪水」というのは、「薪水の労」などという言葉があるように、薪を採り水を汲むことに代表される炊事作業のことです。「役」は労役ですから、この句の意味は「老農は私のために炊事の労役を提供してくれる」つまり「老農は私の炊事の世話をしてくれる」ということです。むろんタダ働きではありません。作者のほうから老農に報酬を支払って炊事の世話をしてもらっているのです。そうやって給料をもらった老農は「得銭径沽酒(銭を得れば 径ちに酒を沽う)」というわけです。もしテキストが訳すように老農が作者に給料(何の給料かわかりませんが)を支払うのだとすると、その後の句が全く意味をなしません。銭の流れが正反対です。

炊事なんか自分ですればいいじゃないか、というのは現代人の発想で、儒教的価値観では炊事などは卑しい仕事であって士大夫が自ら行うべきことではないので、人を雇ってやってもらうわけです。老農のほうからしても手っ取り早く現金収入を得るための良い手段だったでしょう。なにしろ貨幣経済が浸透した社会では現金がなければ酒を買うのもままならないわけですから。

次に第十一回で紹介されている清の沈徳潜の《蛙》について。原詩は以下のとおり(仮名遣い等はテキストの表記による)。

雨余蛙倍鬧(雨余 蛙 倍ます鬧しく)
同類和応斉(同類 和応すること 斉し)
盛怒疑虓虎(盛んに怒るは 虓虎なるかと疑い)
長鳴異木鶏(長く鳴くは 木鶏に異なれり)
柳辺波拍岸(柳辺 波 岸を拍ち)
煙外草平堤(煙外 草 堤に平らかなり)
鼓吹晨連夕(鼓吹 晨より夕べに連なり)
相看月色低(相看る 月色の低るるを)

問題は第4句の「木鶏」です。この言葉は言うまでもなく《荘子》(達生篇)に出てくる有名な闘鶏の寓話に基づくものです。闘鶏育成の名人が育て上げた最強の闘鶏を「まるで木彫りの鶏のようで、他の鶏が鳴いても相手にせず、その完全な精神力に他の鶏はかなわず逃げ出してしまう」と表現していることから、何事にも動じない優れた精神力により戦わずして敵を退ける超越的な強さの象徴として用いられる言葉です。日本では双葉山が連勝記録を69で止められた際に「ワレイマダモッケイタリエズ」という電報を師と仰ぐ安岡正篤に送ったエピソードが有名です。

テキストでは、この「木鶏」という言葉を何故か単なる闘鶏と解釈して、この句の訳を「声を長く引いて鳴くのは、闘鶏とは異なる」としてしまっています。木鶏たり得ない普通の闘鶏はいきり立って鳴くのですから、この訳では意味不明です。「いつまでも長く鳴き続けているところは、何事にも動じず騒がない最強の闘鶏とは違う」とでも訳すのが適切でしょう。

「薪水」といい、「木鶏」といい、漢詩文を読み慣れた人からすれば基本的な語であり、一線の研究者が意味を取り損ねるような難語ではないと思いますが、これだけ多数の詩の訳出・解説作業を短時間で行っていると、こういうこともあるのでしょう。