今日(2020.12.20)の読売新聞の書評欄に、鈴木洋仁氏(社会学者・東洋大学研究助手)による『真木悠介の誕生 人間解放の比較―歴史社会学』(佐藤健二著)という本の書評が掲載されています。


この中にこういう一節がありました。

(著者は)私淑する師との距離を保ちながら、戦後日本社会学史だけではなく、社会学とは何か、社会とは何かを考えるために大切なヒントを、いくつもちりばめる。

文中、「私淑する師」というのは「真木悠介(社会学者・見田宗介の筆名)」のことですが、皆さんはこの文章を読んで、真木悠介(見田宗介)と著者の佐藤健二氏の関係はどのようなものだと思われるでしょうか。いいかえれば「私淑する」の意味をどう考えるか、ということです。


「私淑する」とは、「私(ひそ)かに淑(よ)くする」ということで、「直接教えを受けなくても心の中でその人を慕い、著書などを通じてその人に学んで、修養に努める」という意味です。もともと『孟子』に出てくる言葉で、「予私淑諸人也(予、諸を人に私淑するなり)」とあります。時間的もしくは空間的に隔たって直接に指導を受けることはできない人に対して、いわば一方的に心の中で師事して学ぶことをいう言葉です。


これを踏まえて、鈴木氏の上の文章を読むと、著者の佐藤健二氏は真木悠介(見田宗介)から直接指導を受けたわけではないのだな、と受け取ってしまいます。ところが、この書評を最初から読むとわかるのですが、著者の佐藤健二氏は真木悠介(見田宗介)から実際に指導を受けた弟子に当たる方のようです。僕は他人の経歴を調べるなんてことはあまり好きではないのですが、念のため、佐藤氏の経歴を調べてみたところ、確かに見田ゼミに所属して直接指導を受けた方らしく、このような場合、「私淑する」とは言いません。明らかに誤用です。


重箱の隅をつついているように見えるかもしれませんが、鈴木氏の誤用をあげつらう意図はありません。実は「私淑」の誤用は今回の例に限らず、結構広く見かけるのです。今回、その原因をあらためて考えてみたのですが、本来の意味で「私淑する」ということがなくなってしまったせいではないか、と思いいたったのです。


まず、空間的な隔絶ですが、前世紀末以来の情報通信技術の進歩で今や地球上のどこにいる相手とでも顔を見て話せるようになりました。当然、指導を受けることもできます。遠く離れているから私淑するしかない、という状況はもはやなくなったのです。


一方で、時間的な隔絶のほうは、100年前に亡くなった人に会うことはさすがに今でも不可能ですが、そもそも古人に学ぶという姿勢自体が当今では全く流行りません。なにしろ、古典など学んでも意味はない、もっと「実学(?)」を教えろという風潮です。そのため、時間的な意味での「私淑」も絶滅寸前というわけです。


こうして「私淑」という言葉が本来意味する内容が世の中から消滅したために、その空隙に、「単に師事する」という意味が入り込み、「私淑」=「師事する」という誤用が普及してしまったのではないでしょうか。以上、見た目は大人、頭脳は子供、迷探偵argonの推理です。


空間的な意味での「私淑」がなくなることは良いことなのだと思います。文明の恩恵というべきでしょう。一方で、時間的な意味での「私淑」をなくしてしまうべきではないと思います。先人に学ぶ姿勢をなくしてしまったら、文明の進歩も止まってしまうのではないでしょうか。「私淑」という言葉とその本来の意味がなくなってしまわないよう、正しい用法を守りたいと思うのです。重箱の隅は意外と大事です。


なお、「私淑」の反対、つまり、直接に接して教えを受ける場合には、「親炙する(近づき親しく感化を受ける)」という言葉があります。もちろん、「師事する」で代用することもできますが、「師事」には「親炙」も「私淑」も含まれますから、両者を区別したい場合には向きません。また、今回の例で「師事」を用いると「師事する師との距離を・・・」となり、「馬から落馬する」のたぐいの変な文になってしまいます。おそらく鈴木氏もそれを避けたいあまり、「私淑」を誤用してしまったのでしょう。その点、「親炙する師との距離を・・・」なら問題ありませんね。