書名

『三条実美 ― 維新政権の「有徳の為政者」』(電子書籍版)

著者

内藤一成

刊行

中央公論新社 2019年6月発行(電子版)(紙書籍単行本は2019年2月発行)

メモ

三条実美(1837~1891)の知名度は、維新三傑(西郷隆盛・大久保利通・木戸孝允)にははるかに及びませんし、岩倉具視や大隈重信、板垣退助などと比べてもやはり低くなっています。尊敬する歴史上の人物として維新の功労者を挙げる人は多いですのが、西郷や坂本龍馬、高杉晋作を挙げる人はうんざりするほどいるのに、三条実美の名を挙げる人を僕は見たことがありません。

三条の名を知っている人にとっても、そのイメージは、幕末朝廷内の急進攘夷派の代表で、八月十八日の政変で失脚した「七卿落ち」の後は長州藩にかくまわれて亡命生活を送った、という維新前のエピソードによるものが主で、維新政府で18年もの長きにわたってトップに立っていたことは知られていないか、もしくは「ただのお飾りのトップ」として軽視されるか、というのが実情です。特に、西郷隆盛が主人公の歴史ドラマの中では、征韓論に端を発した明治6年の政変で両派の板挟みになって決断できず病に倒れるというシーンが繰り返し演じられてきました。それらのドラマを見てきた我々の頭に、三条実美という人物は「優柔不断で頼りないトップ」だというイメージが植えつけられることになったのも無理からぬことかもしれません。

実際には、名門の出自と清廉高潔な人格、亡命時代の苦難にひるまなかった不屈の精神によって上下の信頼と尊敬を集めていた彼こそが、脆弱な寄り合い所帯であった維新政府における「重し」であり、何度も訪れた瓦解の危機を防いだ、かけがえのない存在でした。政治的な手腕や実務能力に関しては彼は大久保や木戸、岩倉、伊藤博文などに遠く及びませんでしたが、しかし、彼らのような能力はしょせん代わりがきくものです。実際、大久保亡き後は伊藤が台頭して実務を切り盛りしていきました。一方で三条の「徳」は誰にも代わりようのない存在であり、三条という守護神がなければ、維新政府が数々の近代化改革をおこなうことはできなかったといえます。特に、懐柔のために左大臣として政府に取り込んだ島津久光がしかけた奪権闘争に苦しみながらも、最後は敢然とこれを退けた明治8年の政変は歴史的なターニングポイントだったと思います。もし、守旧派の頭領ともいうべき久光が権力を握っていたとしたら日本の近代化は頓挫し、その後の歴史は全く違ったものになっていたはずだからです。

三条をトップとする太政官制は、近世から近代への橋渡しをする過渡的な政治体制であり、やがて近代的な内閣制度にとってかわられることになります。その際、三条は鮮やかに身を引き、初代内閣総理大臣の地位を伊藤博文に譲りました。それだけでなく、太政大臣から内大臣に転じた三条は、宮中の保守勢力が内閣の政治に介入するのを抑止する役割を果たし、立憲制度のスムーズな確立を助けました。もし三条にひとかけらでも野心や私欲があればこのような見事な出処進退はなしえなかったでしょう。この時代にこの人を得たことは日本にとって奇跡的に幸運なことだったのかもしれません。

大日本帝国憲法が施行され、第1回帝国議会が開会してから、わずか2ヶ月あまりのち、三条はインフルエンザに罹患してこの世を去ります。近代的な立憲国家の誕生を見届けたかのような逝去のタイミングは、維新政府で三条が果たした役割を象徴しているように思えます。著者が言うように、もし長寿を得ていたなら、伊藤や山県有朋をはるかにしのぐ「超・元老」になっていたことは間違いありませんが、三条自身はそれを望まなかったような気もします。

読み終えて、ふと思い出したのが、若き日の正岡子規の夢が「朝にあっては太政大臣、野にあっては国会議長(実際には太政大臣と国会議長が併存したことはありませんが)」だったことです。維新以降、太政大臣になったのは三条実美ただ一人ですから、子規があこがれた「太政大臣」は具体的には三条のことにほかなりません。もし、三条がお飾りの太政大臣だったとすれば、子規のような青年が、そんな地位にあこがれるでしょうか。国会議長にもあこがれた進取の気概に富む青年が、同様にあこがれの対象としたということこそが、三条が決してお飾りなどではなく、当時の国家と政府、そして日本の近代化にとって不可欠な存在であったことを如実に示していると思います。