ナポレオン四代 ― 二人のフランス皇帝と悲運の後継者たち

書名

『ナポレオン四代 ― 二人のフランス皇帝と悲運の後継者たち』(電子書籍版)

著者

野村啓介

刊行

中央公論新社 2019年6月発行(電子版)(紙書籍単行本は2019年2月発行)

メモ

ナポレオン1世と3世は歴史の教科書にも出てくるので広く知られていますが、2世と4世についてご存じの方はほとんどいないと思います。4世のほうは帝位についていないので正式な名称ではありませんが、2世のほうは、1世の2度目の退位の後、わずか約2週間の名目上の(当時、ナポレオン2世はわずか4歳、母マリ=ルイーズの実家であるオーストリアに半ば幽閉されていた)在位ながら、公式に帝位についています。

ナポレオン2世の「即位」後まもなく第一帝政は完全に崩壊し、ブルボン朝の復古王政が再開したため、彼がフランスに帰還することは二度となく、その後の生涯をオーストリア貴族「ライヒシュタット公」としてオーストリアで過ごすことになります。この悲運の貴公子の生涯についてはこの本ではじめて知ることができました。

オーストリア皇帝フランツ1世にとってライヒシュタット公はかわいい孫であると同時に、仇敵ナポレオン1世の嫡子であり、フランスの皇位継承権者であるという危険な存在でもあったため、フランツ1世は彼を監視下に置き、彼の周りから徹底して父ナポレオン1世の痕跡を消し去ろうとしました。にもかかわらず、ライヒシュタット公は成長とともに次第に父への関心を深め、やがて偉大な父の後継者としての自覚を強めていくことになります。軍人としてキャリアをスタートさせた父への憧れからか、祖父フランツ1世に頼み込んでオーストリア軍に入隊しますが、まもなく病に倒れ、21歳の若さで亡くなります。まさに悲劇の主人公というほかありません。宝塚歌劇の題材になりそうです。

ナポレオン3世については、本書を読んで、従来の一般的な評価が不当に低いものだと感じました。不衛生きわまりない状態だったパリの都市改造をおこない、道路網と公園・広場、上下水道、街灯が整備された、清潔で開放的な街に作りかえました。治世に二度のパリ万博を開催して産業発展を推進し、対外進出によってフランスの海外領土は3倍以上に増大しました。クリミア戦争やイタリア統一戦争に介入してルーマニアやイタリアでの国民国家成立に大きな役割を果たし、ヨーロッパの国際政治で中心的な位置を占めることになります。客観的に評価すれば、フランスの黄金期を現出した優秀な指導者であり、叔父の1世と比較してもそれほど劣るわけではないとみるのが妥当ではないでしょうか。クーデターで独裁政権を樹立したこと、普仏戦争に敗れて帝政を崩壊させたことは確かに負の評価の要因でしょうが、これらは叔父の1世にも共通することです。にもかかわらず、1世と比べて否定的な評価が支配的なのは、やはり、カール・マルクスとヴィクトル・ユーゴーの痛烈な批判が今なお影響力を持っているからなのでしょう。

退位後、イギリスに亡命したナポレオン3世は、エルバ島を脱出して皇帝に返り咲いた1世さながらにフランス帰還計画を立てますが、その実行直前に持病が悪化して亡くなってしまいます。残された息子のルイ皇太子(ナポレオン4世)は、ボナパルト家当主としての自覚を深めながら、将来的なフランスへの帰還を見据えつつ、イギリス軍の一員として誰からも評価されるキャリアを積むことを目指していきます。この辺りはオーストリア軍に入隊した2世と重なります。その後、彼は強く志願して南アフリカの戦場に赴き、ズールー族との戦闘で非業の死をとげます。

読み終えてみると、2世、3世、4世はそれぞれに、1世ののこした捉えようのない幻影を追いかけ、「ナポレオン」という名前に翻弄された人生だったという気がします。2世と4世の悲運と悲劇は誰しも同情するところでしょうが、3世の栄光と失墜(没後の否定的な評価も含めて)も僕には悲運・悲劇に思えます。マルクスの言う「2度目は茶番」で片づけられるようなものだとは思えません。