汎兮堂箚記 #9 『オスマン帝国 ― 繁栄と衰亡の600年史』(小笠原弘幸)
書名
『オスマン帝国 ― 繁栄と衰亡の600年史』(電子書籍版)
著者
小笠原弘幸
刊行
中央公論新社 2019年9月発行(電子版)(紙書籍単行本は2019年3月発行)
メモ
オスマン帝国(かつて用いられていた「オスマン=トルコ」という名称は現在はあまり用いられない)自体は、世界史の教科書には必ず登場しますし、最近では海外ドラマ『オスマン帝国外伝 愛と欲望のハレム』がCSや動画配信サービスで放送されているので、広く知られていると思いますが、その600年にわたる長い歴史については断片的な知識しか持たない人が(僕も含めて)多いことでしょう。
そもそも600年というのは、日本でいえば、中世の鎌倉時代から近代の大正時代までに当たる長さで、支配地域はアジア・ヨーロッパ・アフリカの3大陸にまたがります。これだけ長期間にわたって続いた大帝国の歴史を、専門知識のない読者が挫折せずに読み切れるサイズ・レベルの一般書にまとめることが非常に困難な仕事であることは容易に想像できます。
著者は本書によって、その困難な仕事を一切手を抜かずに成し遂げています。36代におよぶ歴代スルタンを、1人も省略することなくとりあげている点がそれを象徴していますが、しかも叙述は決して表面的なものにとどまらず、最新の研究をもとに帝国の社会・経済・権力構造とその変化を、随時、深掘りしていきます。これだけの内容をこのサイズにまとめた筆力には敬服するほかありません。
従来の見方(あるいは現在でも高校の世界史の授業ではそうなのかもしれませんが)は、キリスト教国の連合艦隊がオスマン帝国の艦隊を破った1571年のレパントの海戦を転機として帝国は徐々に衰退に向かい、17世紀にはイェニ・チェリ軍団を中心とする反乱とスルタンの廃位・弑逆が繰り返されて混乱を極め、以降はヨーロッパ諸国の攻勢にさらされて敗北と領土の割譲を重ねて滅亡していくというものでしたが、著者はそれを否定します。
レパントの敗戦はたしかに一大事件でしたが、軍事的には、前年のオスマン帝国によるクレタ島制服のほうがはるかに重要な意味を持っており、レパント海戦の翌年にはオスマン帝国は艦隊を再建し、制海権を維持しています。反乱によるスルタンの廃位は、むしろ、ヨーロッパ諸国における市民革命と同じ位相でとらえるべきで、一連の反乱と廃位を通じて、帝国は、絶対君主が支配する剛構造から複数のステークホルダーの合従連衡によって運営される柔構造へ転換し、これがさらなる存続と繁栄を可能にしたのです。
支配構造を転換したことで帝国は安定を取り戻し、18世紀前半には経済的・文化的に繁栄の時代を迎えます。帝国が本格的な衰退に転じるのは、1768年に始まった露土戦争とその敗北によってであり、その後は相次ぐ対外戦争で敗北を重ね、領土は縮小の一途をたどることになります。危機的状況のなか、18世紀末以降は、西欧列強のような「財政軍事国家」への転換を図った諸改革が何度も実施されては、挫折を繰り返していきました。実は、憲法制定も国会開設も、オスマン帝国のほうが日本より先んじていましたが、対外戦争の敗北による緊急事態を理由にスルタンが立憲政を停止しています。結局、オスマン帝国は、明治維新後の日本のように財政軍事国家への転換を成し遂げることができないまま、第一次世界大戦の敗北を経て滅亡することになります。
オスマン帝国のかつての版図内に存在する国家(いわばオスマン帝国の継承国家)は20ヶ国以上に及び、それらの国境線のほとんどはオスマン帝国の支配が消滅した(あるいは列強によって消滅させられた)際に人為的に引かれたものです。そして、これらの地域とその周辺では20世紀以降現在にいたるまで内戦や紛争が絶えません。パレスチナ紛争はいうまでもなく、湾岸戦争とイラク戦争、アルジェリア内戦、イエメン内戦、旧ユーゴ内戦、シリアとリビアの内戦、ここ数日では、ナゴルノ・カラバフでの軍事衝突が緊迫化しています。現在の中東情勢と、それが影響を及ぼす国際関係を理解しようと思えば、オスマン帝国の歴史は絶対に無視できないことは明らかです。
『オスマン外伝』のファンはもちろん、国際情勢に関心のある人、それから、日本の近代化について違う角度から考えたい人、などにも参考になる力作です。
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