汎兮堂箚記 #14 『事大主義 ― 日本・朝鮮・沖縄の「自虐と侮蔑」』(室井康成)
書名
『事大主義 ― 日本・朝鮮・沖縄の「自虐と侮蔑」』(電子書籍版)著者
室井康成刊行
中央公論新社 2019年6月発行(電子版)(紙書籍単行本は2019年3月発行)メモ
本書は、その「事大主義」という言葉に着目し、特に近代以降の日本(本土・沖縄)と朝鮮半島で、この言葉が、誰に対して、どのような意味で投げかけられたかをたどることで、東アジア近代史を見つめ直そうと試みています。
「事大(大に事つかふ)」という言葉は、『孟子』を出典とし、もともとは小国が大国に従うことで自国の安全を保つ外交上の戦略を意味していましたが、やがて朱子学の大義名分論と結びついて、大国(中国の王朝)は主君であり小国(中国から冊封を受けた周辺国)は臣下として忠義を尽くすべきだという道徳的な意味を帯びることになります。朝鮮王朝や琉球は、事大を実践することで自国が儒教道徳にのっとった文明国であることを国の内外に示していました。
しかし、欧米列強が東アジアに進出してくると、欧米列強が主導する近代的な国際秩序と、中国を中心とする従来の冊封体制との間で矛盾が生じ、両者の間で衝突が繰り返されながら、やがて前者が後者を排除することになります。いち早く近代的な国際秩序を受け入れた日本は、「事大」にこだわり近代化を拒む隣国の朝鮮に対し、次第にいらだちと批判を強めていき、朝鮮の姿勢を、主権国家として自立する意思と能力に欠け、主体性なくひたすら清に追随するものとして揶揄・侮蔑し、これを「事大主義」と呼ぶようになります。それまで朱子学では肯定的な意味だった「事大」が、このとき、否定的な意味を持つ「事大主義」という言葉に変化したのです。
日清戦争で日本が勝利し、清国と朝鮮との宗属関係が否定されて、朝鮮が大韓帝国という完全な独立国となり、本来の「事大」が消滅した後も、日本から韓国へ向けられた「事大主義」という侮蔑は続きました。ところが、やがて日本が韓国を併合して「他者としての韓国」が消滅すると、行先を失った「事大主義」のレッテルと批判の矛先は、逆に日本自身の国民性へと向けられることになります。「事大主義」という言葉が、本来の「事大」からさらに離れ、個人レベルの主体性の欠如や過剰な依存心、強者に迎合して保身を図る態度を指すようになり、折しも大正デモクラシーの潮流の中で、「長い物には巻かれろ」という事大主義の国民性が選挙の正当性と議会政治の発展を妨げるという言説が展開されていきました。その中心にいたひとりが民俗学者の柳田国男であり、『遠野物語』などで有名な柳田の民俗学も、日本の国民性の問題点を明らかにし、その成果に基づく政治改良運動によって、事大主義を克服するという目的のもとに構想されたものでした。
日本で生み出された「事大主義」という言葉は、かつて本来の「事大」を実践していた朝鮮半島や沖縄へも「輸出」され、日本本土と同じように、克服すべき自らの国民性や県民性を指す言葉として用いられるようになります。
第2次大戦後の日本では、事大主義の国民性こそが軍国主義の台頭をもたらしたのであり、民主主義の確立のためには事大主義の克服が必要だ、とする言説がさかんになりました。南北に分断された朝鮮半島では、南北が互いに相手を「大国の傀儡=事大主義」と批判することによって自らの正当性を主張するとともに、国内の反対勢力を攻撃する際にも事大主義のレッテルが多用されました。
結局のところ、近代日本が生んだ事大主義という言葉は、非常に便利なレッテルだったのでしょう。本書でも紹介されている桐生悠々の「事大主義普遍説」に言う通り、どんな国にもどんな人にも、事大主義的な部分はあるはずです。「事大」の「大」たる中国について、本書は取り上げていませんが、魯迅が『阿Q正伝』で描いた奴隷根性もまた事大主義といえるのではないでしょうか。また、戦後になって急に「軍国主義をもたらした事大主義を克服して民主主義を確立しよう」と叫び始めた言論人もまた、戦後民主主義という「長い物」に積極的に巻かれた事大主義ではないかと僕には思えます。著者が言うように、他者を事大主義として批判するとき、自らの事大主義は見えなくなりがちですが、これは「事大主義」に限った話ではないでしょう。他人の言動にレッテルを貼って容赦なく攻撃する人が増えている昨今、他者に安易にレッテルを貼ることの危うさと不毛さをあらためて感じた一冊でした。
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