書名

『公卿会議 ― 論戦する宮廷貴族たち』(電子書籍版)

著者

美川圭

刊行

中央公論新社 2019年7月発行(電子版)(紙書籍単行本は2018年10月発行)

メモ

コロナ禍によりテレワークが普及し、会議もリモートで開催されることが多くなった昨今、「会議」というものについてあらためて考えさせられた人も多いのではないでしょうか。そもそも日本では、不要な会議が多いとか、会議が無駄に長いとか、事前の根回しで結論が出ているため議論がおこなわれないとか、会議にまつわる様々な不満や問題点が指摘されてきました。「会議」をテーマにして日本の古代・中世史をたどる本書は、我々日本人にとっての会議というものについて考えたい人にとって格好の参考書です。

「あとがき」で明かされますが、本書はもともと、古代から現代までの日本の会議のありようをたどる『会議の日本史』として構想されていたものが、諸事情により、対象を古代から南北朝時代までの朝廷に限定するかたちに変更して世に出たものだそうです。現代日本までを視野に入れた当初の構想の片鱗は「終章 公卿会議が生きていた時代」にわずかに見ることができ、続編への期待を抱かないではありませんが、実際にはそれは恐ろしく困難な執筆になるであろうことも想像してしまいます。江戸時代だけでもおそらく本書を上回る内容量になるでしょう。さらに幕末動乱期の幕府や朝廷、各藩での会議、明治以降の議会や閣議まで含むとなれば、執筆どころか、読むだけでも気が遠くなりそうです。

当初の構想からすると、いわば不完全な形で世に出ることになった本書に、このキャッチ―なタイトルをつけたのは、中公新書の編集部会議だそうです。「会議について書かれた本のタイトルを決める会議」というのも興味深いですが、さすがにプロだけあって、うまいタイトルをつけたものだと思います。毎日池に船を浮かべて遊び暮らしていたというイメージの強い貴族たちが「論戦する」という意外性は、潜在読者の興味をひくと同時に、本書の特徴を的確にあらわしています。実際、会議に焦点を当てた本書を読むことで従来のイメージとは異なる宮廷貴族たちの姿が見えてきます。たとえば「この世をばわが世とぞ思ふ」ほどの権勢をほこった藤原道長も、単に天皇の外祖父となることで自動的に権力を手にしたわけではなく、公卿会議の中で藤原公任や藤原実資などの頭の切れるうるさ型をうまく制御し、信頼を得ることで権力基盤を固めていったのであり、この視点から見ることで、道長が関白にならなかった理由も明確に説明することができます。関白になれば公卿会議に参加できなくなるため、すでに内覧の権限を持っていた道長にとっては、関白になるメリットよりデメリットのほうが大きかったのです。

本書の終わりの時代は、以前この汎兮堂箚記で紹介した『室町の覇者 足利義満 ― 朝廷と幕府はいかに統一されたか』(桃崎有一郎著)の始まりと重なります。まさに足利義満の登場とその力づくの廷臣支配によって、統治機構としての公卿会議は終止符を打たれたのでした。そういう意味で、著者は異なりますが『室町の覇者』と本書をセットで読むのも面白いのではないかと思います。