書名

『承久の乱 ― 真の「武者の世」を告げる大乱』(電子書籍版)

著者

坂井孝一

刊行

中央公論新社 2019年7月発行(電子版)(紙書籍単行本は2019年2月発行)

メモ

今年は承久の乱(1221年)から800年にあたり、京都文化博物館では4月から特別展「よみがえる承久の乱」を開催していましたが、新型コロナ感染拡大による緊急事態宣言により会期半ばで閉幕してしまいました。ひょっとしてこのコロナ禍は後鳥羽院の怨念によるものではないかと思ってしまいます。

承久の乱の一般的なイメージは、源実朝暗殺により源氏将軍が断絶したのちの鎌倉幕府の動揺・混乱に乗じて幕府を打倒しようと考えた後鳥羽院が無謀にも挙兵し、幕府の返り討ちにあって大敗したというものですが、本書では、承久の乱が起こる遥か昔、院政の確立期から筆を起こして、保元・平治の乱と平家の台頭、源平争乱から鎌倉幕府の成立へと話を進めながら、従来のイメージと異なる、史実に即した「承久の乱」の姿を明らかにしていきます。

後鳥羽院はマルチな才能を縦横に発揮した「文化の巨人」でした。勅撰和歌集の『新古今和歌集』は、従来の勅撰集とは異なり、下命者である後鳥羽院自身が編纂作業に積極的に関与(もしくは介入)した前代未聞の勅撰集です。和歌だけでなく、音楽も、武芸も一流、さらに廃れかけていた宮廷儀礼の復興にも尽力し、自ら猛勉強して知識を習得すると、その知識に基づき廷臣たちにスパルタ教育を施し、理想の朝廷の実現に向けてエネルギッシュに活動していきます。著者は後鳥羽院を「芸術家にしてプロデューサー、おまけにスポーツマン」と評していますが、僕は「プレイングマネージャー」もしくは「代打オレ」という言葉を思い出しました。「監督兼選手」はその人の優秀さのあらわれでもありますが、同時に、兼任せざるを得ない現実をもあらわしています。当時の朝廷において後鳥羽院は「GM兼監督兼コーチ兼選手兼審判」のような突出しすぎた存在だったように思えます。

次に著者は、鎌倉幕府3代将軍源実朝について、従来伝えられてきた人物像、つまり、政治の実権を北条氏に握られた傀儡に過ぎず、政治に興味を持たず、京の宮廷文化にあこがれて和歌や蹴鞠に耽った文弱な将軍、というのは誤ったイメージであることを明らかにしていきます。承元3年(1209年)、18歳になった実朝は将軍親裁を開始し、積極的に政策を実施して成果を上げ、自らを擁立した北条氏をも抑えて、御家人の上に君臨していました。将軍実朝の権力は強大で、建保5年(1217年)には北条氏らの反対を押し切って、宋へ渡航するための巨船を建造しています(船が巨大すぎて完成後、浜から動かず、渡宋計画自体は失敗に終わりました)。そして、この実朝親裁の幕府を、「実朝」という名の名付け親でもある後鳥羽院が、官位の昇進を通じて支援していました。実朝在任中、朝幕関係は蜜月ともいえる協調関係にあり、その結実が「親王将軍」構想でした。実朝には子ができませんでしたが、それを逆手に取って、後鳥羽院の皇子を鎌倉に招いて将軍の位を譲り、実朝がそれを後見することで「東国の王権」を実現しようとする構想です。御家人たちにとっても幕府の権威が向上することは願ってもないことであり、後鳥羽院から見ても、実の子を将軍として送り込んで幕府をコントロール下に置くことは当然望ましいことでしたから、朝幕一体となってこの構想を進めていきました。構想の実現はもはや既定路線でしたが、実朝の暗殺によって状況は一変します。

自らが支援し信頼していた実朝を守れず暗殺を許した幕府首脳に不信感・不快感を抱いた後鳥羽院は、親王将軍構想を白紙に戻します。しかし、将軍空位による求心力低下を恐れる幕府としても簡単にあきらめるわけにはいきません。後鳥羽院のほうもこの時点で幕府と決定的に対立するつもりはなく、妥協案として「摂家将軍」が実現することになりました。

後鳥羽院が挙兵へと向かう大きなターニングポイントとなったのは大内裏の焼失でした。そもそもの原因は、源頼茂(源三位頼政の孫)が実朝暗殺後に将軍になろうと野心を抱いたものの摂家将軍の実現でその望みが絶たれ、謀反を企てて露見し、在京武士が後鳥羽院の院宣を得て頼茂を攻めたことでしたが、その兵火によって累代の宝物もろとも大内裏が焼け落ちたのです。前代未聞の出来事であり、あまりのショックで後鳥羽院は一時病床に伏すことになります。しかし、一方でこの一件を通じて、在京武士団は鎌倉からの指示なしに、後鳥羽院の命令によって行動しうることが明らかになり、後鳥羽院は、彼らを鎌倉から切り離して自らの武力として利用できると考え始めます。

病から回復した後鳥羽院は、大内裏の再建に邁進しますが、再建の費用・労役の負担を求められた全国の国司・荘園領主・地頭から抵抗の嵐が巻き起こり、結局、大内裏の再建は形だけ完了したことにして、実質中断することになりました。後鳥羽院にとっては大変な屈辱であり、怒りの矛先は幕府の首脳へと向かいます。そもそも大内裏焼失の原因となった源頼茂の謀反は幕府内部の権力闘争であり、後鳥羽院からすれば、幕府に責任がある以上、幕府は全国の地頭を指揮して率先して大内裏再建に協力すべきなのに、実際には何らの協力も貢献もしていませんでした。後鳥羽院はその原因が幕府の実質トップである執権北条義時の存在であると考え、義時を排除することを決意します。つまり後鳥羽院の目的は「倒幕」ではなく、あくまで義時の排除により幕府をコントロール下に置くことでした。自らも武芸にすぐれていた後鳥羽院には、武士や幕府を否定する意図は全くなかったのです。

ついに挙兵した後鳥羽院は三段構えの作戦で義時排除を図ります。まず在京御家人を中心に一千余騎を招集し、京都守護を攻め滅ぼして京の守りを固めます。次に東国の有力御家人に向けて義時追討の院宣を下し、上手くいけば彼らの手によって義時を排除し、上手くいかなかったとしても幕府中枢に対立と混乱をもたらそうとします。さらに、全国の武士、特に畿内・西国の御家人を主たる対象とする義時追討の官宣旨を発して、幕府の支配力の弱い西日本から大規模な兵力の動員を目指しました。後鳥羽院の挙兵は決して無謀なものでもなければ、過度な楽観に基づいたものでもなかったのです。

しかし、実際の戦いとなれば、やはり幕府首脳のほうが一枚も二枚も上手でした。後鳥羽院挙兵と院宣・官宣旨発給の情報を得た彼らは、ただちに行動を起こして、院宣・官宣旨が東国の御家人たちに伝わる前にそれらを押収してしまいます。そして尼将軍北条政子の有名なあの演説で、後鳥羽院の挙兵の目的を「義時排除」から「倒幕」にすりかえて御家人たちを幕府のもとに団結させることに成功します。そして大江広元の主張に従い、追討軍を迎撃するのではなく東国武士を大動員して京都へ向けて出撃しました。結果、院宣によって幕府中枢に混乱と対立を引き起こすという目論見は完全に空振りに終わります。鎌倉方の出撃の報を受けた後鳥羽院はただちに迎撃の軍を送りますが、鎌倉方との兵力差が明らかな上に、作戦のまずさもあり、一部の武士たちの奮闘も空しく、京方は敗戦を重ね、ついに、承久3年6月15日(1221年7月6日)、鎌倉方の軍が京都に入り、後鳥羽院は「義時追討の宣旨の撤回」「すべて申請に任せて聖断を下す(鎌倉方の要求にすべてしたがう)」という全面降伏を申し出て、乱は終結しました。

著者は、この戦いを「チーム鎌倉」対「後鳥羽ワンマンチーム」と表現しています。適材適所でそれぞれの得意な能力を発揮して危機に対処した幕府に対して、朝廷のほうは後鳥羽院ひとりがすべてを考え、決断し、命令し、周りはイエスマンばかりで院に進言できる者はいませんでした。あまりに有能すぎる後鳥羽院はなんでも一人でできたゆえに、それが敗因になったというのは皮肉なことですが、現代にも通じることなのかもしれません。