没後130年河鍋暁斎展

ついに令和となりました。つつしんで、新たな御代のお慶びを申し上げます。僕は今日、さっそく令和初出勤です。


さて、令和の初投稿は、兵庫県立美術館で4月6日~5月19日まで開催中の『没後130年 河鍋暁斎』を紹介します。


没後130年河鍋暁斎展

河鍋暁斎(1831~1889)は幕末から明治にかけて活躍した画家です。七歳で浮世絵師の歌川国芳に、十歳で狩野派絵師の前村洞和に、その後さらに駿河台狩野家当主の洞白に入門して絵を学びました。とにかく絵の好きな子供だったようで、3歳ではじめてカエルを写生した、9歳の頃には、大雨の後の神田川で生首(!)を拾って帰り写生した、などのエピソードが残っています。


その後、19歳で修行を終えて画家としての活動を始めた暁斎ですが、幕末の争乱期に狩野派の絵師として生計を立てることが難しかったこともあり、画題も表現方法も製作の場もえり好みすることなく旺盛に活動し、その作品は屏風絵、掛軸、錦絵、挿絵、絵馬、引き幕など多岐にわたっています。その画業はもはや、「美術」という枠に収まりきらない幅広さです。



最初に人気を博したのは、その風刺精神にあふれた錦絵でした。錦絵作家としては、もともと「猩々狂斎」と名乗っていましたが、明治3年に政府高官を揶揄したとして投獄、笞打ちの刑を受けて後、画号を「暁斎」と改めました。ただし、読みはそのままにしたため「暁斎」は「きょうさい」と読みます。



生前には国内のみならず海外でも高い人気を得ており、明治政府に招聘された医師のベルツ博士は「現存の日本最大の画家」と評しています。東京美術学校(現・東京藝術大学美術学部)の初代教授に就任する予定でしたが、開校直前に胃癌のため59歳で亡くなります。没後は、次第に忘れ去られ、戦後にいたってはほとんど知られない存在となっていましたが、没後100年頃から再評価が進み、1993年にはあの大英博物館で展覧会が開催されました。近年は国内各地でたびたび展覧会が開かれるようになっています。


僕が訪れた4月21日は、レクチャールームで「ふたつの暁斎展」という対談が開催されました。



「ふたつの暁斎展」というのは何かというと、一つは今回の『没後130年 河鍋暁斎』展ですが、もう一つはサントリー美術館で3月まで開催されていた『河鍋暁斎 その手に描けぬものなし』展のことです。このふたつの展覧会は開催時期が非常に接近しているのですが、巡回展でも何でもなく、全くの偶然でこうなったのだそうです。しかし、お互いの展覧会の開催を知った後は、作品の所蔵先との出展交渉を共同で行うなど、協力して準備を進めてきたそうです。展覧会を開催するって大変なんですね。


今回の『没後130年 河鍋暁斎』展の特徴は、膨大な下絵や写生、習作が出展されていることです。自伝『暁斎画談』に描かれる誇張された逸話から、暁斎には「酒浸りの奇人」のイメージがついてまわります。しかし家族の証言によれば、酒好きは事実でしたが、それ以上に絵に対しては非常にストイックであったといいます。今回公開された膨大な量の下絵や写生は、まさにこの証言を裏付けるものといえます。これらの下絵や写生を見ていると、暁斎が絵に注ぎ込んだ鬼気迫るほどの情熱が伝わって来ます。まさに「画鬼」です。



展覧会を鑑賞後、暁斎の鬼気にあてられて上気したまま、ミュージアムショップで図録を買ってしまいました。



せっかくなので、中をちょっとお見せしましょう。





もっと見たい、という方は、ぜひ展覧会に足を運んで本物をご覧ください。展覧会は5月19日(日)まで。なお、今回の展覧会は出展作品が多いため、前半(~4月29日)と後半(~4月30日~)で展示作品が大幅に変更されており、現在は後半の作品が展示されています。


さて、ここまで長文を読んでいただいた方、ありがとうございます。でも、「ちっとも令和初らしくない投稿だな」と思われたのではないでしょうか。いやいや、ちょっとお待ちください。


河鍋暁斎は1889年に亡くなりました。再評価のきっかけとなった没後100年は、1989年です。そう、平成元年。そして今回、没後130年が令和元年なのです。どうでしょう、令和初投稿で取り上げるのにふさわしいと思いませんか?・・・思いましょう。どうか思ってください。