書名

『公家源氏 ― 王権を支えた名族』(電子書籍版)

著者

倉本一宏

刊行

中央公論新社 2020年8月発行(電子版)(紙書籍単行本は2020年1月発行)

メモ

源氏といえば、一般には、武士として活躍した清和源氏のイメージが強いのですが、実際には清和源氏以外にも数多くの源氏が皇族の臣籍降下によって誕生しており、そのほとんどが京の都で公家として活動していました。本書ではそのような「公家源氏」の各家、各個人について史料を駆使してかなり詳しく解説しています。

記述がかなり網羅的なので、読み物として以上に、小辞典・参考書として有用なのではないかという印象を持ちました。史料の現代語訳が直訳的でやや生硬に感じましたが、おそらく、史料に忠実であることを意識した結果だろうと思います。

嵯峨天皇が自らの皇子・皇女を臣籍降下させて、初の賜姓源氏である「嵯峨源氏」が誕生して以来、中世にいたるまで多くの天皇の子孫から様々な源氏が生まれていきました。多すぎる皇族を減らして皇室の費用を削減する、皇位継承権者を減らすことで皇位をめぐる争いを事前に防ぐ、あるいは、臣籍降下した息子たちを高い位につけて自らの藩屏とする、などが賜姓源氏誕生の理由・目的と言われていますが、各時代、各天皇によって事情は必ずしも一様ではありません。

藤原基経が17歳の陽成天皇を退位させて55歳の光孝天皇を即位させた際、光孝天皇は自分を皇位につけてくれた基経の意向を忖度して自己の皇子女をすべて臣籍降下させ、自らの子孫の皇位継承権を放棄する意思を示しました。しかし結局は光孝天皇の子から皇太子を立てざるを得なくなり、いったん臣籍降下した源定省が皇族に復帰して皇太子となり、光孝天皇崩御後、即位して宇多天皇となります。宇多天皇は、臣籍降下後の源定省時代に息子の維城をもうけていました。維城は父の皇族復帰とともに改名して敦仁親王となり、宇多天皇退位後、即位して醍醐天皇となります。著者は以下のことに触れていませんが、臣下として生まれた旧皇族が皇籍に復帰し、天皇に即位した前例として、この醍醐天皇の例は、現在の旧皇族復帰論にも影響する史実といえます。

すべての公家源氏に共通する傾向として、一世の世代は天皇との血縁が近く(天皇の息子、あるいは代がかわっても兄弟)、そのミウチ関係を背景に高位に登って活躍するものの、世代が下るとともに天皇との血縁が遠くなると、もはやミウチではなくなって地位を低下させ、やがては子孫の消息もわからないほど没落していく、ということが挙げられます。そんな中で、師房流村上源氏は比較的後世まで高い地位を保ち続けることができましたが、これは藤原摂関家との密接な血縁関係に支えられたものでした。時代の容赦ない淘汰の結果、公家源氏は中世以降、「堂上源氏」と呼ばれる十八家に収束していきます。それらの家は、長く続く武士の時代を、公家社会の中で生き延び、明治維新の後は華族に列せられることになります。堂上源氏十八家のうち半数以上の十家が村上源氏であり、王政復古の仕掛人として維新後は右大臣に登る岩倉具視を出した岩倉家も村上源氏です。

公家社会で生き残った堂上源氏に対し、生き残れなかった源氏の子孫たちの一部は都を捨てて地方へ下り、武士となっていきます。早期から地方へ出て武士となっていた清和源氏や桓武平氏も含め、彼ら「元皇族」がどのようにして武士になっていったのか、次回の汎兮堂箚記では、その詳細が描かれた『武士の起源を解きあかす』(桃崎有一郎著)を取り上げる予定です。