今年も備忘録として〇周年を迎える歴史上の出来事をまとめてみます。去年はのんびりしているうちに2月になってしまった反省から、今年はとりあえず概要を先に公開し、随時加筆していくことにしました。出来事の取捨選択は去年同様気まぐれであり、見落としもたぶんあるのでご了承ください。基本的に、直近200年くらいは10年区切り、それ以前は50年・100年区切りを目安にしつつ、今年と同じ干支である「壬寅(みずのえとら)」の年は上記条件に関わらず取り上げることにしています。また、去年と違い、今年は人物の生誕年も一部取り上げています。

追記

2023年版はこちら(随時加筆) → 2023年に〇周年を迎える出来事一覧


1月

中華民国成立110年(1912年1月1日)

1911年10月に勃発した辛亥革命により、多くの省が清朝からの独立を宣言。各省は共和制にもとづく中央政府設置で合意し、12月29日に孫文を臨時大総統に選出。1912年1月1日、孫文は南京で中華民国の成立を宣言し、臨時大総統に就任した。2月12日には清朝の宣統帝が退位し、清朝が滅亡するとともに中国における君主制が廃止された。


ルイ・ブライユ(1809~)没後170年(1852年1月6日)

6点点字(ブライユ式点字)を発明したフランスの盲学校教師。5歳のとき両目を失明。王立盲学校で教鞭をとるかたわら、フランス軍の考案した12点式の暗号をもとに、6点式点字を発明した。この点字はその後世界で普及し、視覚障碍者の学習、教育、コミュニケーションに大きく貢献した。肺結核のため43歳で亡くなった。ブライユの誕生日1月4日は世界点字デー。


大隈重信(1838~)没後100年(1922年1月10日)

佐賀藩の上士出身、幕末には志士として活動しながら長崎で西洋の学問を学んだ。維新後は明治政府の首脳に入り、参議、大蔵卿、外務大臣、内務大臣、農商務大臣などを歴任し、2度にわたって内閣総理大臣を務めた。また早稲田大学を設立するなど高等教育の充実にも尽力した。


世界初のインスリン投与100年(1922年1月11日)

1921年、カナダの整形外科医フレデリック・バンティングと医学生のチャールズ・ハーバート・ベストがインスリンを発見。翌年1月11日、カナダのトロント総合病院で当時14歳の1型糖尿病患者に世界初のインスリン投与がおこなわれた。インスリンの発見に対して、1923年ノーベル医学生理学賞が授与された。


日英同盟(第一次)締結120年(1902年1月30日) 壬寅

極東で南下政策を進めるロシア帝国に共同で対抗することを目的とした軍事同盟であり、この同盟締結により大英帝国の「光栄ある孤立」政策は終結した。当時の覇権国家である英国の支援を得たことが日露戦争(1904~1905)における日本の勝利に大きく寄与した。


2月

台湾の鄭氏政権成立360年(1662年2月1日=永暦15年12月13日) 壬寅

明の遺臣鄭成功が台湾のゼーランディア城を攻略してオランダ東インド会社を放逐し、以後、1683年まで鄭氏の政権が台湾を拠点として清朝への抵抗を続けた。

→ 国姓爺鄭成功入臺三百六十年【2022.02】


山県有朋没後100年(1922年2月1日)

幕末長州藩で高杉晋作や伊藤博文と活動をともにし、奇兵隊軍監などをつとめた。維新後は新政府に入って陸軍の創設に関わり、維新三傑亡き後は、長州閥と陸軍を掌握して政・官・軍に大きな影響力を持った。2度の首相のほか、内相や陸軍参謀総長、枢密院議長などを歴任し、伊藤や井上馨らとともに元老として重要国事に関与した。

ワシントン海軍軍縮条約締結100年(1922年2月6日)

前年から開催されていた史上初の軍縮会議「ワシントン会議」の結果、主力艦保有率を、米英:日本:仏伊=5:3:1.67とする海軍軍縮条約が締結された。同会議ではほかに、米英日仏が太平洋における相互の領土・権益の保証などを取り決めた四カ国条約、米英日仏伊中蘭伯葡が中華民国の領土保全、門戸開放などを定めた九カ国条約も締結された。この結果、協調外交により第一次大戦後のアジア太平洋地域の国際秩序を維持しようとするワシントン体制が確立した。

英女王エリザベス2世即位70年(1952年2月6日)

1926年4月21日生まれ。父ジョージ6世の逝去により25歳で即位。2007年4月に英国史上最高齢君主に、2015年9月に英国史上最長在位君主となった(いずれも2位はヴィクトリア女王)。また、2015年1月には世界最高齢在位君主に、2016年10月には世界最長在位の存命君主になっている。英国のみならず、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドなど14の英連邦王国の元首であり、それ以外の旧英領諸国も加盟するコモンウェルス(英連邦)の長でもある。

2022年9月8日、静養先のスコットランド・バルモラル城で96歳で亡くなった。

マーストリヒト条約調印30年(1992年2月7日)

正式名称「欧州連合条約」。欧州諸共同体加盟国の間で「欧州連合」を創設することを定めた条約で、通貨統合と政治統合について規定された。翌年11月1日に発効し、欧州連合(EU)」が発足した。


ルイ・ヴィトン(1821~)没後130年(1892年2月23日)

フランスのスーツケース職人(マルティエ)。トランクのメーカー・ルイ・ヴィトン社を創設し、各国の王族から重用されて世界的な評価を得た。彼の死後、ルイ・ヴィトンはさらに世界で最も有名なファッションブランドの一つに成長した。1987年にモエ・ヘネシーと合併してLVMHとなり、その後、ディオールやフェンディなども傘下におさめ、巨大ファッションブランドグループとなっている。

3月

芥川龍之介(~1927)生誕130年(1892年3月1日)

大正から昭和初めの作家。短編小説にすぐれ、『鼻』『羅生門』『地獄変』『歯車』などの作品を残したが、1927年(昭和2年)7月24日、服毒自殺した。この自殺は社会に衝撃を与え、後追い自殺をする若者も相次いだ。没後の1935年(昭和10年)、友人の菊池寛が芥川賞を創設し、日本を代表する純文学新人賞として現在も続いている。

オランダ東インド会社設立420年(1602年3月20日) 壬寅

オランダ政府からアジアでの貿易独占権を与えられた勅許会社。世界初の株式会社といわれる。単なる交易だけでなく、条約の締結や植民地の経営、軍事活動をおこなう権限を与えられていた。活動拠点としてアジア各地に開設されたオランダ商館は、江戸時代の日本の長崎出島にも置かれ、当時のヨーロッパ諸国として唯一対日貿易を許された。ライバルであったスペイン・ポルトガルの勢力をアジア貿易から駆逐し、「オランダ海上帝国」と呼ばれる海上覇権を確立してオランダ黄金時代の現出に大きく貢献した。しかし、英仏との度重なる戦争で次第に国力が衰退したオランダ本国は1795年にはフランス革命軍の支配下に入り、1799年12月31日をもってオランダ東インド会社は解散させられた。ナポレオン戦争終結後、東インド(現インドネシア)などの海外領土はオランダに返還されたものの、世界の海上覇権はすでに大英帝国のものとなっていた。

スタンダール(1783~)没後180年(1842年3月23日) 壬寅

19世紀前半のフランスの小説家。『赤と黒』『パルムの僧院』『恋愛論』などの作品で知られる。

井伊直政(1561~)没後420年(1602年3月24日=慶長7年2月1日) 壬寅

戦国・安土桃山時代の武将・大名。徳川家康に仕え、その天下取りに大きく貢献した功臣として徳川二十四神将のひとりに数えられる。関ケ原戦後、近江国佐和山に18万石を与えられた。佐和山藩は直政没後に彦根城の完成、石高加増により、彦根藩30万石となり、江戸時代を通じて譜代大名筆頭の扱いを受け、4人の大老を輩出した。

室生犀星(1889~)没後60年(1962年3月26日) 壬寅

詩人・小説家。「ふるさとは遠きにありて思ふもの」(『抒情小曲集』)で有名。詩のほか、小説や随筆も多く、また、故郷金沢や東京の多くの学校の校歌の作詞も手掛けた。



4月

上杉鷹山没後200年(1822年4月2日=文政5年3月11日)

出羽米沢藩第9代藩主。諱は治憲、隠居後に鷹山と号した。日向高鍋藩主秋月家に生まれたが、母方の祖母が米沢藩第4代藩主上杉綱憲の娘であった縁で養嗣子として上杉家に入った。
明和4年(1767年)に家督を継いで藩主となると、破綻寸前の藩財政の立て直しに取り組んだ。改革に反対する重臣の抵抗を退け、質素倹約の徹底や財政に明るい人材の登用などにより財政再建を成し遂げた。

フォークランド紛争40年(1982年4月2日~6月14日)

アルゼンチン沖の南大西洋上に浮かぶ英領フォークランド諸島(アルゼンチン名:マルビナス諸島)に対し、領有権を主張するアルゼンチンが侵攻して占領。サッチャー首相率いる英国は艦隊を派遣するとともに、経済制裁と外交交渉による解決を模索し、国連や米国をはじめとする各国政府も調停を試みたが、いずれも実らなかった。結局、強硬姿勢を貫いた英国は軍事行動に踏み切り、被害を出しながらも同諸島を奪還した。6月14日、同諸島のアルゼンチン軍が降伏して戦闘が終結した。この敗北によりアルゼンチン軍事政権のガルチェリ大統領(陸軍総司令官)は失脚し、翌年の軍政終結・民政移管へとつながった。両国は1990年に国交を回復したが、アルゼンチンは現在も同諸島の領有権を主張している。

イースター島発見300年(1722年4月5日) 壬寅

イースター島は、南米チリから西へ3,700kmの太平洋上に位置する、全周60km、面積180km2ほどの島。1722年の復活祭(イースター)の夜、オランダの探検家ヤーコプ・ロッヘフェーンがヨーロッパ人として初めてこの島を発見した。上陸したロッへフェーンは千体を超えるモアイ像と二、三千人の住民の存在を報告している。ヨーロッパ人の到達以前に自然破壊と部族間戦争によって文明が崩壊していたとする説と、ヨーロッパ人による奴隷狩りと彼らによって持ち込まれた疫病の流行のために文明が崩壊したとする説がある。

聖徳太子(厩戸皇子 574~)没後1400年(622年4月8日=推古天皇30年2月22日)

用明天皇の第2皇子。叔母である推古天皇を補佐して政治をおこない、十七条憲法や冠位十二階の制定、遣隋使の派遣などにより、天皇中心の中央集権国家確立に寄与したとされる。政治的功績のみならず、様々な宗教的・神秘的伝説も伝えられて聖徳太子信仰が形成され、現在に続いている。現在の歴史学では、聖徳太子によるとされてきた事績をそのまま歴史的事実とすることには慎重な見方が大勢である。

石川啄木(1886~)没後110年(1912年4月13日)

明治時代の歌人・詩人。10代から浪漫主義文芸誌『明星』などで詩人として活動し、19歳で最初の詩集を出版したが、経済的に困窮し、代用教員や新聞の校正係などとして働きながら文学活動を続けた。明治43年(1910年)に刊行した歌集『一握の砂』で、三行分かち書きというスタイルと、生活の現実や人生の苦しみを直視する歌風が注目され、歌人として名声を得たが、翌年には病のため療養生活となり、明治45年(1912年)結核のため26歳で亡くなった。

タイタニック号遭難110年(1912年4月14日)

タイタニック号は1912年3月31日竣工した英船籍の豪華客船。同年4月10日に英国サウサンプトン港からニューヨークへ向けて処女航海に出発したが、14日深夜、ニューファンドランド沖で巨大氷山に衝突、翌15日未明に沈没した。犠牲者数は1513人に達し、当時史上最大の海難事故として世界に衝撃を与えた。

川端康成(1899~)没後50年(1972年4月16日)

近現代日本文学を代表する小説家として大正から昭和にかけて、『伊豆の踊子』『雪国』『山の音』『古都』など数多くの名作を著した。1968年には日本人として初めてノーベル文学賞を受賞したが、昭和47年(1972年)4月16日夜、ガス自殺した。

チャールズ・ダーウィン(1809~)没後140年(1882年4月19日)

英国の地質学者・生物学者。英海軍測量船ビーグル号での5年間の航海における調査・観察とその後の研究によって、共通の祖先をもつ生物が自然選択のプロセスを経て多様な生物種に進化するとする進化論を確立し、1859年に『種の起源』を出版して、現代まで続く進化生物学の基盤を確立した。

尾崎豊(1965~)没後30年(1992年4月25日)

1980年代~1990年代初めのシンガーソングライター。高校在学中の1983年(昭和58年)にデビュー。1985年のシングル「卒業」の歌詞の過激な表現に影響を受けた若者の行動が問題になるなどしたことから、「10代の教祖」と呼ばれた。1992年(平成4年)4月25日、26歳の若さで亡くなり、ファンのみならず広く社会に衝撃を与えた。

日本主権回復70年(1952年4月28日)

1951年9月調印のサンフランシスコ条約が発効し、GHQによる占領が解除され、日本は独立を回復した。


5月

講道館設立140年(1882年5月5日)

「柔道の父」嘉納治五郎によって創設された柔道の総本山。嘉納治五郎は、古武道である柔術の様々な流派を研究した末、それらを総合、発展させ、「精力善用」「自他共栄」を理念とする柔道を創始し、東京下谷北稲荷町の永昌寺境内の12畳の道場で講道館を設立した。武術の近代化という面で画期的な役割を果たし、近代日本の武道教育・普及に大きく寄与した。


萩原朔太郎(1886~)没後80年(1942年5月11日)

大正~昭和期の詩人。1917年(大正6年)に自費出版した第1詩集『月に吠える』で、それまでの詩の概念を破る斬新な口語象徴詩のスタイルが高い評価を受け、日本近代詩の新時代を切り開いた。その後も、『蝶を夢む』『青猫』などの詩集を発表して近代口語詩の確立者となった。

五・一五事件90年(1932年5月15日)

海軍の青年将校や陸軍士官学校生らが首相官邸を襲撃し、犬養毅首相を射殺した事件。襲撃を受けた際、犬養首相は「撃つのはいつでも撃てる。話を聞こう」と諭したが、士官らは「問答無用」と発砲した。被弾した後も犬養首相は「今の若いモンを呼んでこい。話して聞かせる」などと述べ、意識もはっきりしていたが、徐々に衰弱し、深夜に亡くなった。首相官邸以外にも、内大臣邸、立憲政友会本部、三菱銀行本店、警視庁などを襲撃する集団テロ計画だったが、犬養首相暗殺以外の襲撃は失敗した。

もともと事件は、ロンドン海軍軍縮条約(1930年)などの軍縮政策に不満を募らせた海軍青年将校らが陸軍や民間の活動家と共同でクーデターによる国家改造を計画したことに始まる。しかし、計画が停滞し、運動が分裂するうちに、政権はロンドン海軍軍縮条約を締結した民政党の濱口雄幸、その後任の若槻礼次郎から、彼らの内閣を打倒した政友会の犬養毅へと移っていた。このため、皮肉にも、かつて軍部とともに軍縮条約を批判していた犬養自身がテロの標的となってしまった。

事件によって、大正末期に確立した事実上の議院内閣制と二大政党制は終焉を迎え、犬養内閣は戦前最後の政党内閣となった。

沖縄復帰50年(1972年5月15日)

第2次大戦末期の沖縄戦の結果、沖縄は米軍の占領下に置かれた。1952年に発効したサンフランシスコ講和条約でも、沖縄は米国の施政権下に置かれるものとされた。米国は行政主席を長とする琉球政府と公選議員からなる立法院を設置して一定の自治を認めたが、琉球政府は米国民政府の指揮監督下に置かれ、最終権限は米国民政府が握っていた。戦後早くから日本への復帰運動が起こっていたが、ベトナム戦争の激化などで沖縄の軍事的重要性が増すとともに米国民政府からの圧力が強まり、運動は停滞した。1965年、佐藤栄作首相は「沖縄の祖国復帰が実現しない限り、わが国の戦後は終わらない」との声明を発し、沖縄返還を政策課題とすることを明確にした。1969年の日米首脳会談において、日米繊維交渉での日本の譲歩(繊維輸出の自主規制)、沖縄米軍基地の維持を条件として、ニクソン米大統領は沖縄返還を約束した。この交渉の過程で、「有事の際には事前協議のうえで沖縄への核の持ち込み、通過を認める」という密約が結ばれたことが後に明らかになっている。1971年返還協定が調印され、1972年5月15日、沖縄は日本に復帰した。

東ティモール民主共和国独立20年(2002年5月20日)

国際法上はポルトガルから、実際上はインドネシアの占領から独立。21世紀になって初の新独立国の成立。独立運動のシンボルであったシャナナ・グスマンが初代大統領に就任した。


広瀬淡窓(~1856)生誕240年(1782年5月22日=天明2年4月11日) 壬寅

江戸後期の儒学者、教育者、詩人。諱は建、通称は寅之助・求馬(もとめ)、淡窓は号。文化2年(1805年)、故郷の豊後日田に私塾を開き、これが文化4年(1807年)に移転拡張して桂林荘となり、さらに文化14年(1817年)に移転して咸宜園となった。咸宜園には、身分を問わず誰でも入塾でき、身分や年齢に関係なく平等に学ぶことができた。儒学のみならず、数学や天文、医学も講義され、毎月、試験による成績評価が発表された。このような教育が話題と人気を呼び、咸宜園には日本全国から学生が集まって、彼らのために寮も併設された。咸宜園は淡窓の没後も明治30年(1897年)まで存続し、高野長英や大村益次郎、清浦奎吾などの人材を輩出した。

東京スカイツリー開業10年(2012年5月22日)

既存の東京タワーの電波送信が超高層建築物の影響を受けるようになったこと、携帯機器向け放送の電波需要の増大などに対応する目的で、新電波塔の建設が計画され、2008年7月14日に着工、2012年2月29日に竣工した。2012年5月22日に電波塔・観光施設として開業した。高さ634mは、電波塔として世界1位、人口建造物全体でもアラブ首長国連邦のブルジュ・ハリーファ(828m)に次ぐ世界第2位。

長谷川町子(1920~)没後30年(1992年5月27日)

『サザエさん』『いじわるばあさん』を生んだ日本初の女性プロ漫画家。1935年(昭和10年)、15歳で漫画家デビュー、1946年(昭和21年)4月、夕刊フクニチで『サザエさん』の連載を開始、中断や連載先の変更がありながらも連載を続け、1951年(昭和26年)には連載先を朝日新聞朝刊に移し、新聞4コマ漫画の第一人者となった。その後『サザエさん』は、中断をはさみつつも1974年(昭和49年)まで新聞連載が続き、1969年(昭和44年)にはアニメ化されたこともあって、国民的漫画の地位を確立した。没後の1992年7月28日に国民栄誉賞が授与された。


与謝野晶子(1878~)没後80年(1942年5月29日)

明治~昭和期の歌人・詩人・作家。旧姓は鳳(ほう)、本名は鳳志やう(しょう)。ペンネーム「晶子」の「晶」は本名の「しょう」からとった。歌人・詩人の与謝野鉄幹主宰の文芸誌『明星』に短歌を発表して注目され、1901年(明治34年)刊行の処女歌集『みだれ髪』で女性の官能を情熱的に詠みあげて、浪漫派歌人としての地位を確立した。同年、与謝野鉄幹と結婚。1904年(明治37年)には、日露戦争に従軍した弟に呼びかける反戦詩「君死にたまふことなかれ」を発表して論争を呼んだ。夫の鉄幹の創作活動が長期に渡って不振に陥り、晶子が家計を支える必要に迫られたこともあり、旺盛な文学活動を続け、膨大な作品を遺した。源氏物語の現代語訳者や女性解放思想家としても知られる。

6月

ミッドウェー海戦80年(1942年6月5~7日)

第2次世界大戦の太平洋戦線におけるターニングポイントとなった日米両軍の戦い。中部太平洋に位置する米領ミッドウェー島の付近で両国海軍の空母機動部隊が激突した。日本は、ミッドウェー島を攻略することで米軍の空母部隊をおびき出してこれを撃滅することを作戦目的としていたが、結果は、投入した4隻の正規空母とその艦載機289機をすべて喪失し、3000人以上の戦死者を出すという大敗に終わった。米側も空母1隻と約150機の航空機を喪失するなど小さくはない損害を受けたが、残存する正規空母がわずか2隻となった日本海軍のダメージのほうがはるかに致命的であることは明らかであった。開戦以来半年間、連戦連勝を続けていた日本軍の快進撃がこの海戦で止まり、大幅な戦力喪失によって、日本が開戦前に企図していた短期決戦勝利による早期講和が事実上不可能となった。この海戦後もしばらくは日本軍が局地的な勝利をおさめることもあったが、米軍との圧倒的な戦力差はもはや埋め難く、挽回不能な劣勢の中での戦いを余儀なくされていくこととなる。

石川丈山(1583~)没後350年(1672年6月18日=寛文12年5月23日)

江戸初期の日本漢詩を代表する詩人・文人。徳川家譜代武士の家に生まれ、自身も家康の近侍となり忠勤を評価されていたが、大阪夏の陣で抜け駆けをして厳しく譴責されたことから徳川家を辞して浪人となった。その後、藤原惺窩に師事して儒学を学び、母を養うために和歌山(のち広島)の浅野家に使えたが、母の死後に致仕して京都に移った。寛永18年(1641年)、洛北の一乗寺村(現在の京都市左京区一乗寺)に「凹凸窠」を建てて、そこで隠棲した。その室内には、中国の詩人36人の肖像画(狩野探幽作)を掲げたことから、凹凸窠は「詩仙堂」と呼ばれるようになった。丈山の没後、詩仙堂は曹洞宗の寺院丈山寺となり、現在では京都を代表する観光地となっている。漢詩以外にも、書道、作庭、煎茶などに精通しており、詩仙堂の庭園「百花塢」のほか、東本願寺の渉成園や一休寺(酬恩庵)の石庭なども丈山の手によるものとされる。

伝教大師最澄(766 or 767~)没後1200年(822年6月26日=弘仁13年6月4日) 壬寅

平安初期の僧侶。日本天台宗の開祖。近江国の豪族の家に生まれ、宝亀11年(780年)、近江国分寺で得度。延暦4年(785年)には東大寺で受戒して官僧となった。同年から比叡山に籠もって修行を積み、延暦7年(788年)に山中に建てた草庵がのちに延暦寺となる。延暦16年(797年)には、宮中で天皇の安寧を祈る内供奉十禅師に任じられた。延暦23年(804年)の遣唐使に参加して唐に渡り、天台山を訪ねて天台教学を学んだ。翌年、帰国して日本に天台教学を伝え、延暦25年(806年)、正式に許可を得て日本天台宗を開いた。弘仁13年(822年)2月に伝燈大法師の位を授けられ、同年6月入滅。貞観8年(866年)に、伝教大師の諡号がおくられた。

ロードス包囲戦500年(1522年6月26日~12月22日)

聖ヨハネ騎士団が支配していたロードス島へオスマン帝国軍が進攻して制圧。聖ヨハネ騎士団はヴェネツィア領クレタ島に退去。その後はシチリア島などを転々としたのち、マルタ島を拠点としてオスマン帝国への抵抗を続けた。


湊川神社創建150年(1872年6月29日=明治5年5月24日)

楠木正成を祭神とする神戸市の神社。愛称は「楠公さん」。楠木正成は鎌倉末期から南北朝期の武将。軍略の天才にして後醍醐天皇への忠義を貫いた忠臣として知られる。1336年、湊川の戦いで足利尊氏に敗れて自害した。没後、その首は家族に返され、観心寺(現大阪府河内長野市)に葬られたとされるが、それとは別に、殉節地から百弓離れた地に墓所が営まれ、それが文禄年間(1592~96)の太閤検地によって発見されて墓域は免税地となった。江戸時代になると、尼崎藩主青山幸利が正保3年(1646年)、その墓所に供養塔を建て、さらに元禄5年(1692年)、水戸光圀によって今日まで残る墓碑が建立された。墓碑の表には光圀自身の筆による「嗚呼忠臣楠子之墓」という文字が刻まれている。幕末以降、尊皇思想の広がりとともに楠公顕彰の機運も高まり、明治5年5月24日(1872年6月29日)、墓所と殉節地を含む約七千坪を境内とする湊川神社が創建された。


7月

ウィリアム・フォークナー(1897~)没後60年(1962年7月6日) 壬寅

20世紀米国文学を代表する巨匠。1949年ノーベル文学賞。『サンクチュアリ』『八月の光』など。生涯の大半を過ごしたミシシッピ州ラファイエット郡の田舎町オックスフォードをモデルにした架空の町ヨクナパトーファ郡ジェファソンを舞台とする多数の小説は、同一登場人物が複数作品に登場するなど相互に結びついており、総体として「ヨクナパトーファ・サーガ」と呼ばれる。その先駆的・実験的手法や土俗的・因習的な主題などは、コロンビアのガブリエル・ガルシア=マルケス、中国の莫言、日本の井上光晴、大江健三郎、中上健次ら、後世の作家に影響を与えた。


森鷗外(1862~)没後100年(1922年7月9日)

近代日本文学を代表する作家にして陸軍軍医。明治の近代日本草創期から大正期にかけて、小説のほか、翻訳、評論など幅広い文筆活動を続け、訳詩編「於母影」、翻訳「即興詩人」、小説「舞姫」「ヰタ・セクスアリス」「雁」「阿部一族」「高瀬舟」などの作品をのこした。また、軍医として陸軍軍医総監・陸軍省医務局長(陸軍軍医のトップ)にのぼったほか、退役後も帝室博物館(現:東京国立博物館)総長や帝国美術院(現:日本芸術院)初代院長をつとめた。

→ 森鴎外

メンデル(~1884)生誕200年(1822年7月20日)

オーストリア帝国ブリュン(現・チェコ共和国ブルノ)の司祭としてつとめるかたわら、自然科学に関心を持ち、植物学の研究をおこなった。1853~1868年の間に修道院の庭でエンドウマメの交配実験を実施し、その結果を数学的に解析することで、メンデルの法則と呼ばれる一連の法則を発見し、遺伝形質はその法則にしたがって「遺伝粒子」によって受け継がれるという粒子遺伝を提唱した。メンデルの業績は存命中はあまり評価されることはなかったが、1900年に3人の科学者が別々の研究でメンデルの法則を再発見したことで、半世紀前に法則をすでに発見していたメンデルの業績に注目が集まり、「遺伝学の祖」としての評価が確定した。

山内容堂(豊信 1827~)没後150年(1872年7月26日=明治5年6月21日)

幕末の第15代土佐藩主、政治家。諱は豊信。容堂は藩主をしりぞいた後の号。藩主山内家の分家に生まれたが、先代藩主の急死にともない、その末期養子となって後を継いだ。藩政改革によって土佐藩を雄藩の一角に押し上げ、幕末の中央政局に関与していくこととなったが、日和見的とみなされて「酔えば勤皇、醒めれば佐幕」とも揶揄された。藩参政の後藤象二郎からの提案を受け入れて大政奉還を将軍徳川慶喜に建白し、慶喜はこれを受けて慶応3年(1867年)10月、朝廷に政権を返還した。その後は徳川家を擁護する姿勢をとったが、新政府の主導権は討幕派に握られ、容堂も抗しきれなかった。明治新政府で短期間役職に就いたのちは公職を退いた。もともと酒好きとして知られていたが、隠退後の晩年は連日酒楼で豪遊を重ね家産を傾けるほどとなり、脳卒中で亡くなった。


明治天皇(1852~)崩御・大正改元110年(1912年7月30日)

第122代天皇。孝明天皇の第2皇子。幼名として祐宮(さちのみや)の称号を賜る。万延元年(1860年)親王宣下を受けて睦仁(むつひと)の諱名を賜る。慶応2年12月25日(1867年1月30日)、孝明天皇崩御により践祚、慶応4年8月27日(1868年10月12日)即位。その治世のあいだに日本は徳川幕府による幕藩体制から、憲法と議会を持つ中央集権的な立憲君主制へと劇的に転換した。社会・政治・経済・文化の各方面において、欧米を模範とする近代化が進められ、富国強兵・殖産興業によって国力を高めた日本は、日清・日露の戦争に勝利して台湾・朝鮮半島の領土や南満州の権益などを得た結果、欧米列強と肩を並べる強国として国際的に認知されるに至った。急激な近代化が進む時代の中で、「日本の残すべき文化は残し、外国の取り入れるべき文化は取り入れる」という信念で国民を導き、国民道徳の涵養に努め、上下を問わず国民から絶対的な畏敬を集めた。文化的素養にも富み、特に和歌においては生涯に約9万3千首の御製をのこしている。1912年(明治45年)7月30日、崩御。即日、皇太子嘉仁親王(大正天皇)が践祚し、大正と改元した。大正元年9月13日、東京青山の陸軍練兵場(現在の神宮外苑)で大喪の礼が挙行され、翌14日、京都の伏見桃山陵に埋葬された。大正9年(1920年)11月には明治天皇を祭神とする明治神宮が創建された。

8月

アレクサンダー・グラハム・ベル(1847~)没後100年(1922年8月2日)

スコットランド生まれの科学者・発明家。世界初の実用的電話の発明者。12歳のときには早くも親友の家が営む製粉工場のために脱穀機を発明したと伝わる。母親が聴覚障害を患ったことから音響学の研究を始めた。1865年にロンドン、1870年にはカナダに移住、さらに1871年以降、米国ボストンで聾者教育に携わるかたわら、音響学の研究と電気信号による音声伝達機器の実験に力を注いだ。1873年以降は実験に専念し、1876年3月、電話による通話実験に成功し、米国特許を取得した。その後も電話技術の改良を続け、1877年にはベル電話会社(のちのAT&T)を創業した。電話のほかにも、光通信システムの先駆であるフォトフォンや金属探知機、水中翼船など幅広い分野で数多くの発明をなしとげた。電話の発明により人類の情報伝達に革命をもたらしたことから、人類史上最も大きな影響をもたらした人物の1人と評価されている。

松本清張(1909~)没後30年(1992年8月4日)

戦後日本を代表する作家の一人。1951年の処女作『西郷札』で直木賞候補、1953年に『或る「小倉日記」伝』で芥川賞を受賞。1958年以降、『点と線』『ゼロの焦点』『砂の器』などのベストセラーを連発し、社会派推理小説ブームを牽引した。推理小説、時代小説、歴史小説などのほかにも、古代史の研究やノンフィクション、評論など幅広い分野にわたって精力的な執筆活動を続け、膨大な作品を遺した。

マリリン・モンロー(1926~)没後60年(1962年8月5日) 壬寅

米国の女優・モデル。1945年頃からピンナップモデルやイベントコンパニオンとして活動、1946年にはマリリン・モンローの芸名で女優業をスタートした。1953年、『ナイアガラ』『紳士は金髪がお好き』『百万長者と結婚する方法』の主演3作の映画が大ヒットしてトップスターの地位を確立し、米国を代表するセックスシンボルの一人となった。1959年の映画『お熱いのがお好き』でゴールデングローブ賞主演女優賞を獲得するなど、実力派女優としても高く評価されるようになったが、私生活では鬱病や薬物濫用などに悩まされ、1962年、睡眠薬バルビタールの過量服用により亡くなった。

柳田國男(1875~)没後60年(1962年8月8日) 壬寅

日本民俗学の開祖。東京帝大法科大学卒業後、農商務省に入り、東北地方を中心とする農村の生活実態を調査するなかで、民俗学的な関心を深め、その理論と研究手法を確立していった。フィールドワークによる民俗資料の収集に基盤を置いて「日本人とは何か」という問題に向き合い、その研究成果として、東北地方の伝承を収集・記録した『遠野物語』、方言周圏論を提唱した『蝸牛考』などを著した。昭和24年(1949年)には日本民俗学会初代会長に就任。その研究成果や手法は民俗学のみならず、歴史学や文化人類学などの分野にも継承され、大きな影響を与えてきた。また、青年期に詩人として活動していた時期があったことから、文学者とも交流があり、島崎藤村の詩(のちに曲がつく)『椰子の実』は、柳田が藤村に語った話をもとにして創作されたものである。

ヘルマン・ヘッセ(1877~)没後60年(1962年8月9日) 壬寅

20世紀前半のドイツ文学を代表する作家・詩人。1946年ノーベル文学賞。代表作に『車輪の下』『デミアン』『ガラス玉遊戯』など。ドイツ南部のカルフに生まれ、4歳から詩を作り、難関の州立学校入学試験に合格するなど利発な子供であったが、14歳のとき入学した神学校を半年で脱走し、その後、自殺未遂と精神病院入院を経て入学したギムナジウムも退学した。その後、様々な職につきながら創作をおこない、1899年に最初の詩集を自費出版、1904年には『ペーター・カーメンチント』、1906年には『車輪の下』を発表。1912年にスイスのベルンに移住(1927年にはスイスに帰化)、第1次大戦中は平和を訴えて祖国ドイツに批判的な態度をとった。1919年には精神的危機に苦しみながら『デミアン』を執筆して深い精神世界を描き、ドイツ文学を代表する作家の地位を確立した。第2次大戦中はナチス政権から「反ドイツ的」とみなされ、出版のための紙の割り当てを禁止された。1943年に『ガラス玉遊戯』を発表し、これが直接の契機となって1946年、ノーベル文学賞を受賞した。


ブレーズ・パスカル(1623~)没後360年(1662年8月19日) 壬寅

近世フランスの哲学者・思想家・数学者。幼少期から神童として知られ、39歳で亡くなるまでに多くの分野で才能を発揮し、歴史に残る功績を遺した。その業績としては、円錐曲線に関する「パスカルの定理」、流体静力学における「パスカルの原理」などがある。また、歯車式計算機を発明・製造販売したり、乗合馬車システム(現代のバスに相当)を発明・運営するなど、発明家・起業家でもあった。没後に刊行された遺稿集『パンセ』のなかの「人間は考える葦である」という名言でも知られる。

アヘン戦争終結180年(1842年8月29日=道光22年7月24日) 壬寅

1840年~42年にかけて英国と清国との間で行われた戦争。18世紀後半から、清国は広東港のみに限定してヨーロッパ諸国との間に管理貿易を認めていた。英国は自由貿易と中国市場の開拓を望んで交渉を要求し続けたが、貿易をヨーロッパ諸国からの「朝貢」とみなす清国は一切応じなかった。英清貿易は、茶や陶磁器、絹を大量に輸入する英国の大幅な赤字となっており、英国はその打開策としてインドで栽培した麻薬のアヘンを清へ輸出し始めた。その結果、清国内でアヘンの吸引が流行し、依存者が増大して、アヘンの輸入量が拡大したことで、英清間の貿易収支は逆転した。アヘンの蔓延により社会・経済・財政の危機に瀕した清国は、アヘン貿易の徹底取り締まりに乗り出し、1838年、欽差大臣(特命全権大臣)林則徐を広東に派遣した。1839年、林則徐は外国商人たちから1400トンにのぼるアヘンを没収してすべて処分し、今後一切アヘンを扱わない旨の誓約書提出を要求したうえで、従わない英国商人への食糧供給を禁止した。問題の発端が麻薬のアヘンだけに、英本国でも強い反戦論があったが、議会は僅差で出兵予算を承認し、これを受けて海軍は艦隊を派遣した。首都北京に近い天津沖にあらわれた英艦隊を見て驚いた清の道光帝は、林則徐を罷免して和平交渉を開始し、1841年1月にいったん講和条約(川鼻条約)の締結に同意した。ところが、英軍が撤収すると、道光帝は国内の強硬論に押されて条約の正式な締結を拒否したため、英艦隊は軍事行動を再開し、江南の沿岸地域を制圧・蹂躙していった。清海軍のジャンク船は英艦隊の汽走砲艦に対してなすすべもなく撃沈されていった。1842年8月29日、南京条約が調印されて戦争が終結し、清国は英国に賠償金を支払い、香港島を割譲して、管理貿易を廃して自由貿易を認めた。さらに翌年の虎門寨追加条約では治外法権と関税自主権放棄が定められた。その後、同様の不平等条約が他の欧米諸国との間でも結ばれ、清国が列強によって半植民地化されていくきっかけとなった。また、従来東アジアで圧倒的な国力を誇っていた清国の惨敗は日本の知識人層に衝撃を与え、幕末の動乱から明治維新による近代化にいたる大変革を促す要因のひとつとなった。

9月

初の世界周航達成500年(1522年9月6日)

西回りでのアジア航路開拓のため、1519年8月10日にスペイン・セビリアから出航したマゼラン(ポルトガル名マガリャンイス/スペイン名マガリャネス)艦隊のうちの1隻、ビクトリア号がフアン・セバスティアン・エルカーノに率いられてスペインに帰還。史上初めて世界一周航海を達成した。マゼラン自身は1521年にフィリピンで戦死した。出航時の船員約270人のうち、世界周航を達成して帰還したのはエルカーノら18人だけであった。この世界周航によってマゼラン海峡が発見され、太平洋が命名されて大洋であることが認識され、地球の大きさが直接に認識された。


ブラジル独立200年(1822年9月7日)

大航海時代に南米に進出したポルトガルは16世紀以降ブラジルに植民地を形成し、1645年にはブラジルは公国となり、ポルトガルの王太子がブラジル公に就くことになった。1807年、フランスのナポレオン1世がポルトガルに侵攻すると、ポルトガル王家はブラジルへ脱出し、リオデジャネイロに宮廷を置いて事実上の首都としたため、ブラジルの経済・文化は大きく発展した。1815年にはブラジルは公国から王国に昇格し、ポルトガル王がブラジル王を兼ねて、ポルトガルと対等な同君連合を組むことになった。1820年にポルトガル本国で自由主義革命が起こると、革命政府はブラジルに留まっていた国王ジョアン6世にポルトガルへの帰還を求め、1821年ジョアン6世はこれに応じてポルトガルへ帰還した。その際、ジョアン6世は王太子ペドロをブラジル王国の摂政としてブラジルに残した。ポルトガル本国の革命政府はブラジルの独立を恐れて統制を強め、ブラジルを王国から公国へ戻そうとし、ペドロ摂政(ポルトガル王太子)を本国へ召喚した。現地支配層はこれに反発し、1822年ペドロ摂政は本国への帰還を拒否して、9月7日には独立を宣言した。10月12日にはペドロ摂政がブラジル皇帝に即位し、ペドロ1世となった。ポルトガル本国は独立を認めず、1823年11月まで独立戦争が続いたが、ブラジルが勝利し、1825年8月、ポルトガルはブラジルの独立を承認した。

吉川英治(1892~)没後60年(1962年9月7日) 壬寅

日本の小説家。歴史小説・時代小説を得意とし、大衆小説の傑作を数多く生み出し、「国民文学作家」と呼ばれた。神奈川県で旧小田原藩士の家に生まれたが、父は牧場経営に失敗したり刑務所に入ったりするなど生活が安定せず、英治は小学校を中退して様々な職業を転々とした。そのかたわら、懸賞小説に応募して入選するようになり、1921年(大正10年)には東京毎夕新聞社に入社した。同新聞社解散後、職業作家として生計を立てる決意をし、講談社の雑誌『キング』を中心に執筆活動を開始した。1926年(大正15年)から大阪毎日新聞に連載した「鳴門秘帖」は大人気となり、時代小説家としての地位を確立した。1935年(昭和10年)から朝日新聞に連載した「宮本武蔵」は、主人公の武蔵を剣禅一如を目指す求道者として描き、戦時下の読者の心をつかみ、大衆文学の名作となった。その後も「三国志」「新書太閤記」「新・平家物語」「私本太平記」など独自の視点を加えた歴史・時代小説の傑作を多く執筆した。1962年(昭和37年)肺癌のため亡くなり、執筆中の「新・水滸伝」は未完となった。2012年(平成24年)12月31日(没後50年を経過した年の年末)までで著作権が消滅したため、現在では全ての作品がパブリックドメインとなっている。なお、2018年に著作権法改正により著作権の存続期間が没後70年に延長されたが、吉川英治の場合、その時点ですでに著作権が消滅していたため延長は適用されない。

乃木希典(1849~)没後110年(1912年9月13日)

幕末~明治の武士・軍人。長州藩の支藩である長府藩の藩士に生まれ、維新後は陸軍に入って西南戦争などに従軍した。日清戦争(1984~85)では第一旅団長として旅順要塞を1日で攻略した。日清戦争後はたびたび休職していたが、日露戦争(1904~1905)では第三軍司令官に任命され、壮絶な消耗戦の末に難攻不落を謳われたロシアの旅順要塞を攻略した。戦後は国民的英雄として広く尊敬を集めたが、本人は多数の将兵の命を犠牲にした自責の念を抱き続けた。明治天皇の大喪の礼の日の夜、妻・静子とともに自刃して亡くなった。この殉死は国民に大きな衝撃を与え、葬儀の際には乃木の自宅から葬儀場までの沿道を二十万人もの人が埋め尽くした。


小泉訪朝20年(2002年9月17日)

日本の首相として初めて北朝鮮を訪問し金正日と会談。金正日は日本人拉致問題を公式に認め、10月15日、拉致被害者のうち5人が日本に帰国したが、その後、北朝鮮は「拉致問題は解決済み」と強弁し、解決に向けた取り組みは困難を極めている。


正岡子規(1867~)没後120年(1902年9月19日) 壬寅

明治期の俳人・歌人・文筆家。幕末に伊予松山藩の藩士の家に生まれた。諱は常規(つねのり)、通称は処之助、のちに升(のぼる)。号は子規のほか、獺祭書屋主人、竹の里人など。松山中学在学中に同校を退学して上京し、東京大学予備門(のちの第一高等学校、東大教養学部)に入学し、帝国大学文科大学(のちの東大文学部)に進んだ。在学中に肺結核を発症して喀血し、故事にちなんで「子規(ホトトギスの意)」の号を用いるようになった。1892年(明治25年)、大学を中退して、新聞『日本』の記者となり、「獺祭書屋俳話」や「歌よみに与ふる書」などを連載して伝統的な短詩型文学の革新運動を推進した。江戸時代以来の発句を完全に俳諧連歌から独立させて「俳句」とするとともに、現実生活に根ざした写実・写生を重視し、江戸時代の俳人の中では与謝蕪村を高く評価した。短歌でも写実・写生を主張するとともに、古今集を否定し、万葉集のますらをぶりを高く評価した。俳句では高浜虚子や河東碧梧桐、短歌では伊藤左千夫、長塚節などの後進を育てた。1895年(明治28年)日清戦争に記者として従軍した帰路に大喀血して以降、肺結核の病状が進行して脊椎カリエスを発症し、徐々に寝たきりの生活となったが、そんな中でも自身の精神と肉体を客観的に記録した『病牀六尺』を執筆するなど文学活動を続け、子規庵には弟子たちが多く集まって指導を受けた。また、「打者」「走者」「四球」「飛球」等の訳語を考案するなど、日本への野球の普及に貢献したことでも知られる。代表句に「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」「鶏頭の十四五本もありぬべし」、代表歌に「くれなゐの二尺伸びたる薔薇の芽の針やはらかに春雨のふる」など。

エミール・ザトペック(~2000)生誕100年(1922年9月19日)

「人間機関車」の異名をとったチェコ(当時チェコスロバキア)の長距離陸上選手。チェコ東部の工業都市コプシヴニツェに生まれた。19歳のとき、勤務していた工場の実業団コーチの指示で陸上競技の試合に出場して競技人生をスタートし、才能を開花させていった。ロンドン五輪(1948年)で、10000mの金メダル・5000mの銀メダルを獲得、次のヘルシンキ五輪(1952年)では、5000m・10000m・マラソンの金メダルを獲得して空前絶後の長距離3冠を達成した。インターバルトレーニングの創始者としても知られ、自らの実績によってその効果の高さを証明した。これにより世界中のアスリートの間にインターバルトレーニングが普及し、現在も心肺機能の強化を目的として広く実施されている。1968年の「プラハの春」で自由化・民主化運動に加わったため、ソ連の軍事介入によって運動が圧殺された後は長く冷遇されることとなったが、1989年のビロード革命による民主化で復権した。

リンカーンの奴隷解放宣言160年(1862年9月22日)

19世紀半ばの米国では、北部では工業化が進展して新たな工場労働力が必要となり、奴隷制を廃止するようになっていった。また、欧洲産の工業製品への対抗のため、保護貿易を主張した。これに対し、南部の経済はプランテーションで栽培された綿花を欧洲へ輸出することで支えられており、奴隷の労働力と自由貿易の維持が不可欠であった。このため奴隷制を認めない北部の自由州と、奴隷制を維持する南部の奴隷州との対立は次第に激化していき、1860年11月の大統領選挙で奴隷制に反対する共和党のエイブラハム・リンカーンが当選したことで、南部の奴隷州が次々と合衆国を脱退して、「アメリカ連合国」を結成する事態に至った。1861年3月、リンカーンが合衆国大統領に就任、4月にはついに南北戦争が勃発した。アメリカ連合国には最大11州が参加したが、人口、経済力、軍事力いずれも北部が南部を圧倒していた。それでも、司令官級の軍人の多くが南軍に参加したこともあって戦争は長期化した。戦争中の1862年9月、リンカーン大統領は南軍支配地域の奴隷たちの解放を命じる宣言(奴隷解放宣言)を発布した。これによって北軍は戦争における大義名分を明らかにし、国際社会を味方につけることに成功し、1865年4月、北軍の勝利で戦争は事実上終結した。奴隷解放宣言は南軍支配地域の奴隷に限定されたものだったが、1865年12月、合衆国憲法修正第13条が成立し、合衆国全土において奴隷制が廃止・禁止された。

柴四朗(東海散士 1853~)没後100年(1922年9月25日)

明治のナショナリズム小説『佳人之奇遇』を執筆した小説家。『佳人之奇遇』は1885年(明治18年)の初篇刊行以降、1897年(明治30年)まで全8篇16巻が刊行され人気を博した。政治家としても活動し、農商務次官、外務参政官などを務めた。

日中国交正常化50年(1972年9月29日)

第二次大戦後、日本が連合国軍の占領下に置かれて外交権を喪失していたあいだに、中国では国共内戦を経て、中国共産党が中華人民共和国を建国して大陸を制圧し、中国国民党率いる中華民国は台湾へ逃れた。これにより、大陸を支配する中華人民共和国と台湾を支配する中華民国の2つの政府がともに「中国を代表する」と主張する状態となった。日本は1952年4月に台湾の中華民国との間に日華平和条約を締結し、中華民国政府を中国を代表する政府として承認し国交を回復した。このため大陸の共産党政権との間に国交を結ぶことはできず、民間貿易を中心とする交流にとどまった。しかし、英国やフランスが中華人民共和国を承認し、1971年10月には国連が中華人民共和国の加盟と中華民国の追放を決議して中華人民共和国を中国の唯一の合法的代表と認めるに至り、日本も中華人民共和国との国交を樹立する意向を固める。1972年2月には米国のニクソン大統領が突如訪中し、米中の交渉が本格化した。このことも日本に対中交渉を急がせる要因となった。1972年7月に就任した田中角栄首相は、水面下の交渉を経て、9月25日、大平正芳外相らとともに北京を訪問、中国側の周恩来首相らと交渉を重ね、29日、両国の首相・外相が「日中共同声明」に署名して、日本と中華人民共和国との間に国交が樹立された。これにより日本は中華人民共和国を中国を代表する唯一の合法政府と認めることとなり、中華民国(台湾)との国交は断絶したが、民間交流という形で関係は維持されている。


10月

日本初の鉄道正式開業150年(1872年10月14日)

幕末に欧米諸国の近代文明に触れた日本では、幕府や雄藩でいくつかの鉄道敷設計画が持ち上がったが具体化されることはなかった。近代化を進める上で、経済的にも軍事的にも陸上交通の効率化は不可欠であったことから、維新後、富国強兵を目指す明治新政府は鉄道敷設を計画し、具体化を進めた。明治2年(1869年)に、東京-横浜間29kmに最初の鉄道敷設を行うことを決定し、技術・資金は英国から援助を受けることとなった。明治3年3月(1870年4月)には政府に鉄道掛が設置され、建築師長として招いた英国人技師エドモンド・モレルの指導のもと工事が進められた。明治4年8月(1871年9月)には「日本鉄道の父」と呼ばれる井上勝が鉄道頭に就任し、結核で亡くなったモレルの後を継いで敷設工事を推進していった。明治5年5月7日(1872年6月12日)には、品川-横浜間で鉄道が仮開業し、1日2往復(翌日から6往復)の列車が運行され、安全確認と乗務員訓練が行われた。明治5年9月12日(1872年10月14日)、正式に開業し、新橋駅で開業式典が挙行された後、明治天皇と政府関係者(三条実美太政大臣、西郷隆盛参議、大隈重信参議、勝海舟海軍大輔など)、各国公使、琉球からの維新慶賀使らを乗せた「お召し列車」が横浜まで往復運転した。翌日から新橋-横浜間で旅客輸送の営業が開始され、1日9往復、両駅間を53分で結んだ。車両はすべて英国からの輸入であったが、客車の本体部分は木造だったため日本人大工の手で改造して使用された。また開業当初、機関車の運転は外国人が担い、運行ダイヤの作成もお雇い外国人ウォルター・ページの手に委ねられていた。

頼山陽(1780~)没後190年(1832年10月16日=天保3年9月23日)

江戸時代後期の儒学者・詩人。諱は襄(のぼる)、通称は久太郎、号は山陽、三十六峰外史など。祖先は岡崎頼兼という武将で備後国の頼兼城(現三原市頼兼町)の城主だったが、小早川隆景に滅ぼされ、その孫が竹原に移り住み、海運業を営んで屋号を「頼兼屋」とした。のち、ここから「頼」という名字を名乗るようになる。祖父は紺屋を営むかたわら学問にも励み、父・春水は儒学者として大成して広島藩から招かれ藩儒となった。山陽も幼少時から学問、詩文に優れていたが、寛政12年(1800年)9月、突如脱藩して上洛した末に連れ戻され、廃嫡のうえ、3年間座敷牢に幽閉された。幽閉を解かれたのち、父の友人であった菅茶山の廉塾に入り、塾頭となった。茶山は山陽を後継者に考えていたが、山陽は京都へ出て名声を得たいという思いを抑えられず、文化8年(1811年)京都へ出奔した。その後は洛中で私塾を営むかたわら、著述にいそしんだ。文政9年(1826年)には代表作『日本外史』を完成させ、翌年老中松平定信に献上した。亡くなる直前まで著述を続け、『日本政記』『通議』など多数の著作、また膨大な詩を遺した。代表作の『日本外史』は列伝体を用いて武家の興亡の歴史を描いたもので、軍記物語を参考にするなど、史実の考証は正確さを欠き、同時代の学者からは批判も多かった。しかし、簡明な文章や通俗的でドラマチックな内容によって人気を得、幕末にかけて大ベストセラーとなり、多くの志士たちが愛読書としたことで尊王攘夷運動に大きな影響を与えた。また、「鞭声粛々夜河を過る」で知られる、川中島合戦を描いた七言絶句「題不識庵撃機山図」など、数多くの漢詩が人口に膾炙し、江戸後期ひいては日本を代表する漢詩人として評価されてきた。

キューバ危機60年(1962年10月22日~11月20日) 壬寅

1959年1月のキューバ革命後、米国との関係を急速に悪化させていったキューバはソ連に接近し、ソ連もこれを歓迎した。1962年夏、ソ連はキューバに核ミサイルを配備する計画を決定し、8月にはキューバとの軍事協力協定を秘密裏に締結した。当時、ソ連は核ミサイル戦力において米国に対し大きく劣っていたため、キューバへの核ミサイル配備によってこの劣勢を挽回することを目論んだものである。10月15日、米軍の偵察機が前日撮影した写真によって、キューバ国内にソ連製の中距離弾道ミサイルが存在することが発覚した。10月22日、米国のケネディ大統領はテレビ・ラジオを通じて演説し、キューバにソ連のミサイルが持ち込まれた事実を明らかにしてキューバに対する海上封鎖措置を発表した。26日には、米国はDEFCON2を発令し、準戦時体制となったことから、マスコミは「全面核戦争」の可能性を報じ、多くの国民が食料と水を確保しようとスーパーマーケットに殺到してパニックに陥った。米ソ両国間で駆け引きと交渉が続けられ、26日にフルシチョフからケネディに「米国がキューバを攻撃しないことを約束すれば、国連監視下でミサイルを撤去する」という旨の書簡が届いたが、27日にはフルシチョフがモスクワ放送で新たな書簡を公表し、トルコに配備されている米軍ミサイルの撤去を交換条件として追加した。同日夜、ケネディは26日のフルシチョフ提案にのみ回答して「キューバのミサイルを撤去し国連の査察を受け入れれば、米国は海上封鎖を解除し、キューバを攻撃しないことを確約する」という旨の書簡を作成し、その内容を発表した。その一方で、大統領の弟のロバート・ケネディ司法長官が駐米ソ連大使ドブルイニンと秘密裏に会談し、「トルコのミサイルはすでに旧型であり撤去が予定されている。キューバのミサイル撤去が確認されれば必ず撤去される。ただし、この約束が漏れたら責任は全てソ連側にあり、この約束もすべて反故となる」と伝えた。28日、フルシチョフは、ケネディからの書簡とドブルイニン駐米大使からの報告を受けて、キューバからのミサイル撤去を決定し、モスクワ放送を通じて発表した。核戦争の危機を脱した世界は安堵に包まれたが、キューバのカストロ首相は激怒し、ミサイル撤去への協力を拒み、国連による査察を妨害した。それでもミサイル撤去は着々と進み、11月20日、最後の懸案となっていた軽爆撃機「イリューシン」撤去にフルシチョフが同意したことにより、ケネディは海上封鎖の解除を宣言してキューバ危機は終了した。世界が全面核戦争の危機に瀕した事態を教訓として、米ソ両国間には首脳同士が直接対話するためのホットラインが引かれ、米ソの冷戦はデタントと呼ばれる対話共存体制へと向かうことになった。


11月

北原白秋(1885~)没後80年(1942年11月2日)

明治から昭和にかけての詩人・歌人・童謡作家。福岡県の旧・沖端村(現・柳川市)の商家に長男として生まれた。少年時代から明星派の詩歌に傾倒し、中学を退学して上京。『明星』に発表した詩が蒲原有明や薄田泣菫らから賞賛されるなど新進詩人として頭角をあらわし、明治42年(1909年)刊行の処女詩集『邪宗門』で象徴主義・耽美主義詩風が話題を呼んだ。その後も第2詩集『思ひ出』や歌集『桐の花』『雲母集』など充実した創作を続けた。大正7年(1918年)、児童雑誌『赤い鳥』の童謡欄の担当を開始し、以後、作曲家の山田耕筰とのコンビで「からたちの花」「この道」「ペチカ」など多くの童謡の傑作を生み出し、三木露風と並べて「白露時代」と呼ばれる童謡の黄金時代を現出した。詩・短歌・童謡以外にも、新民謡や自治体歌、小学校から大学まで多数の校歌などを作詞しており、今も歌い継がれている。

オスマン帝国滅亡100年(1922年11月17日)

13世紀末にトルコ人の遊牧部族長オスマン=ベイ(オスマン1世)が率いる軍事集団が西北アナトリアに勢力を確立し、1299年に建国したとされる。1453年にはコンスタンティノープルを攻略して東ローマ帝国(ビザンツ帝国)を滅ぼすなど、アジア・ヨーロッパ・アフリカ3大陸にまたがって領土を拡大し、16世紀のスルタン・スレイマン1世の時代に最盛期を迎えた。強大な軍事力は近隣諸国を圧倒し、地中海の制海権を握って、17世紀後半にはその版図は最大に達した。1683~1699の第二次ウィーン包囲失敗以降、オーストリアやロシアによる攻勢を受けて領土は縮小に転じ、軍事的衰退があらわとなった。18世紀後半にはロシアとの二度にわたる戦争に相次いで敗北し、衰勢が決定的となった。19世紀に入ると、産業革命による近代化を経た西欧列強はオスマン帝国の領土への進出・干渉を進め、バルカン諸国やエジプトが次々と独立ないし事実上の独立を果たし、オスマン帝国の領土は縮小の一途をたどった。危機に瀕した帝国は西欧型国家体制への転換を図るタンジマートと呼ばれる改革を始めたが財政破綻によって頓挫した。1876年にアジア初の憲法となるミドハト憲法を発布したものの、1878年には非常事態を口実に憲法施行は停止され、スルタン専制が復活した。西欧式近代教育を受けた青年将校や官吏らはスルタン専制に反対して「統一と進歩委員会」(統一派)を結成し、1908年に青年トルコ革命を起こして憲法を復活させ、1913年には政権を掌握した。統一派政権はドイツと同盟して第一次世界大戦に参戦したものの劣勢が続き、1918年連合国に降伏し、領土の大半を連合国軍に占領された。敗戦により統一派政府が瓦解したことを好機として、スルタン・メフメト6世は連合国(特に英国)の支持によって専制政治を復活させることを狙い、連合国軍による占領を容認した。大戦中の英雄ムスタファ・ケマルは、これに反発する勢力を糾合して、1920年4月、アンカラに大国民会議を開催して指導者に選ばれ、事実上の政府を樹立した。同年8月、メフメト6世が連合国との間にセーヴル条約を締結し、領土の大半を連合国に割譲してギリシャにはイズミルを与えることを認めた。これに反発したアンカラ政府は、ケマルを総司令官としてギリシャ軍と戦いイズミルを奪還した。トルコ軍はさらに東部ではアルメニア軍、南部ではフランス軍を撃退した。これを受けて、連合国は新たな講和条約を締結すべく、講和会議にメフメト6世の帝国政府とケマルのアンカラ政府の双方を招請した。国内的にも国際的にも主導権を握ったアンカラ政府は自らがトルコを代表する単独の政府となるべく、1922年11月1日、スルタン制を廃止することを大国民会議において決議した。すでに国民の支持を失っていたメフメト6世には抵抗するすべはなく、11月17日、英国の軍艦でマルタへ亡命し、600年以上続いたオスマン帝国は滅亡した。


マルセル・プルースト(1871年~)没後100年(1922年11月18日)

フランスの小説家。その生涯の大部分をかけて執筆した大作『失われた時を求めて』は20世紀西欧文学を代表する傑作として、後世の作家に多大な影響を与えた。高名な医師である父と裕福なユダヤ人株式仲買人の娘である母との間に生まれ、経済的には恵まれながらも病弱な少年時代を送った。幼少期に発症した喘息は生涯にわたって彼の行動を制限し、生き方にも影響を与えた。大学卒業後はほとんど職に就くことなく、社交界に出入りしながら文学活動に没頭した。30代後半から51歳で亡くなるまで執筆を続けた代表作『失われた時を求めて』は最も長い小説としてギネス世界記録に登録されている大作であるにとどまらず、語り手の「無意志的記憶」に導かれるまま複雑で重層的なテーマが語られる叙述手法と、末尾で語り手が小説創作の方法論を発見して終わることで、「この小説自体がどのようにして可能になったかを語る小説」という画期的な作品構造によって、20世紀の新たな文学の扉を開く先駆的な作品となった。

ニールス・ボーア(1885~)没後60年(1962年11月18日) 壬寅

原子の構造を説明する「ボーア・モデル」を提唱したデンマークの理論物理学者。1911年英国へ留学して、原子核の発見者で「原子物理学の父」と呼ばれるアーネスト・ラザフォードのもとで研究したのち、デンマークに帰国、1913年、ラザフォードの原子模型の欠点を解消したボーアの原子模型(ボーア・モデル)を提唱した。ラザフォード・モデルでは、電子は原子核の周りの同心円状の軌道を周回しているとされたが、古典力学に基づけば、負の電荷をもつ電子が円運動をすると電磁波を放出してエネルギーを失うため、正の電荷をもつ原子核に引き寄せられてしまい、その構造を維持できないことになり、原子が安定的に存在する現実と矛盾する。ボーアは、この矛盾を解消するため、「電子は特定のエネルギー準位に属し、対応する軌道を円運動している。この状態(定常状態)においては電子は電磁波を放出することなく運動を続けることができる」「エネルギー準位に対応する軌道は、量子条件を満たすもののみが存在する」「電子はある定常状態(軌道)から別の定常状態(軌道)へ瞬間的に移行(遷移)しうる。その際、振動数条件を満たす振動数の電磁波を放射(または吸収)する」という仮説に基づく新たなモデルを提唱した。定常状態で円運動する電子がなぜ電磁波を放出しないかの説明を棚上げすることで、現実に合致する理論を確立したものである。このモデルは水素原子における実験結果と見事に一致し、標準的な原子模型となるとともに、量子力学の先駆けとなった。原子物理学への貢献により1922年、ノーベル物理学賞を受賞。ボーア・モデルはその後、ド・ブロイの物質波の概念、シュレディンガーによる波動関数、マックス・ボルンによる確率解釈の導入により、現在の原子模型へと発展していく。1943年、ナチス占領下のデンマークを脱出し、英国を経由して米国に渡った。なお1939年に発表した原子核分裂の予想は原子爆弾開発の重要な理論的根拠となったが、ボーア自身は原爆開発競争による世界の不安定化を憂慮し、西側諸国にソ連も加えた国際的な原子力管理協定の必要性を米英の指導者に訴えていた。


フグ田サザエ生誕100年(1922年11月22日)

長谷川町子の漫画およびそれを原作とするアニメ『サザエさん』の主人公。原作の設定で、1922年(大正11年)11月22日生まれとされている。磯野波平・フネ夫妻の第一子で長女。弟にカツオ、妹にワカメがいる。原作では23歳でフグ田マスオと結婚し、長男タラオをもうけた。アニメでは24歳だが、タラオはすでに3歳になっている。結婚後しばらく借家で暮らしたが、大家とのトラブルによりマスオ・タラオとともに実家に戻り、磯野家にフグ田家が同居することとなり、様々なエピソードを生み出していった。

12月

中島敦(1909年~)没後80年(1942年12月4日)

昭和戦前期の小説家。祖父の中島撫山、伯父の中島綽軒・中島斗南はみな漢学者であり、父の田人も漢学教員であった。このような環境から漢籍に親しむ機会に恵まれ、後年の創作活動にも影響したとされる。東京帝大卒業後、教員や南洋庁の職員として勤務しながら、小説の執筆を続けた。パラオ赴任中の昭和17年(1942年)2月、文芸誌『文學界』に「山月記」「文字禍」が掲載され、「芥川龍之介の再来」などと評判を読んだ。持病の喘息の悪化により南洋庁東京出張所への転勤希望を申し出ていた中島は、3月にパラオから帰国し、療養生活に入った。「光と風と夢」が同年上半期の芥川賞候補となり、受賞は逃したものの、複数の出版社から作品集の出版が決まり、9月に南洋庁の職を辞して専業作家となった。10月には「李陵」の原稿を書き上げたが、まもなく喘息の悪化により衰弱し、12月には33歳の若さで亡くなった。「李陵」を含む遺作が没後に発表されて高く評価された。その作風は、古典や伝説、歴史から題材を取った物語に自己の内面を投影し、漢文訓読調を下敷きにした硬質な文体によって哲学的な自我の不安を描く点に特徴と魅力がある。専業作家として活動した期間は極めて短く、残された作品数もわずかだが、昭和十年代文学を代表する作家として日本文学史上にその名を刻み、その作品は現在も多くの読者に読みつがれている。

アイルランド自由国成立100年(1922年12月6日)

1541年にイングランド王ヘンリー8世が「アイルランド王」を自称して以降、アイルランドへのイングランドの進出と支配強化が進み、清教徒革命後の1652年のクロムウェルによる遠征、1694年のウィリアム3世による遠征を経てイングランドによる支配が確立した。1801年にはグレートブリテン王国(1707年イングランド王国とスコットランド王国が合同して成立)とアイルランド王国が合同してグレートブリテン及びアイルランド連合王国が成立してアイルランド王国は消滅した。その後、アイルランドの独立や自治を求める動きは反乱や議会活動として長く続き、1914年にはアイルランド自治法が成立したが、第一次世界大戦の勃発によって施行は延期された。1916年、アイルランド共和主義同盟(IRB)がアイルランド共和国の樹立を求めて武装蜂起し(イースター蜂起)、一時ダブリンの主要部を占拠した。蜂起自体は7日間で鎮圧されたが、独立運動の転機となった。1918年12月の英国総選挙でアイルランド選挙区から選出された議員の大半が英国議会での議席を拒否し、独自のアイルランド議会「ドイル・エアラン」を設立した。ドイル・エアランはアイルランド共和国の建国を認め、独立宣言を採択した。英国は独立を認めず、アイルランド独立戦争が勃発した。1921年7月に停戦協定が発効、12月6日には英愛条約が締結され、英帝国内の自治領としてアイルランド自由国の建国を認めるとともに、北アイルランドにはアイルランド自由国に参加せず英国に残留する権利が保障された。1年後の1922年12月6日、アイルランド自由国が建国されたが、北アイルランドは条約に定められた権利を行使して英国に残留した。自由国成立後も英国の影響力排除を志向する動きは弱まらず、1931年にはウェストミンスター憲章で英国と対等な独立国(英連邦王国)と規定され、1937年には国名を「エール(アイルランド)」と改めて自由国憲法にかわるアイルランド憲法を制定して大統領職を創設した。1949年には「アイルランド共和国法」により正式に共和制を宣言し、英連邦も離脱して、現在に至っている。

諸橋轍次(1883~)没後40年(1982年12月8日)

昭和期の漢学者・漢字学者。親字数5万余、熟語数53万余を収録する史上最大の漢和辞典『大漢和辞典』(通称「諸橋大漢和」)の編者として知られる。新潟県南蒲原郡庭月村(現・三条市庭月)生まれ。國學院大學教授、都留文化短期大学学長、都留文科大学初代学長などを歴任。大修館書店からの依頼を受け、1929年から『大漢和辞典』の製作を開始する。昭和20年(1945年)2月の東京大空襲では組み上がっていた第2巻の印刷用の版が全て失われ、翌年11月には白内障の進行により右眼が失明するなど、相次ぐ苦難を乗り越えて、昭和35年(1960年)、全13巻の刊行を完結した。しかし、突貫作業で作製された後半部分を中心に多くの不備が指摘されたため、その後も修訂作業に力を注いだ。諸橋は昭和57年(1982年)に亡くなるが、修訂作業は続き、1984~86年に修訂版全13巻が刊行、1989~90年には新たに語彙索引1巻を加えた修訂第二版全14巻が刊行された。2000年には「補巻」1巻が加わり、全15巻となった。諸橋は大漢和辞典編纂の功績により、昭和40年(1965年)に文化勲章、昭和51年(1976年)には勲一等瑞宝章を受章した。


アポロ計画終了50年(1972年12月19日)

1972年12月7日に打ち上げられたアポロ17号が月面探査を終えて帰還。1961年に始まり全6回の有人月面着陸を成功させたアポロ計画が終了した。その後、2022年10月時点まで有人月面探査は行われていない。米ソ宇宙開発競争のさなかの1961年5月に、米国大統領J・F・ケネディが10年以内に人間を月に着陸させるという声明を発表して始まったアポロ計画は、1968年12月にアポロ8号が史上初めて有人月周回飛行を、1969年7月にアポロ11号が有人月面着陸を達成し、その後もアポロ12号・14号・15号・16号・17号が有人月面着陸と月面探査に成功した。アポロ計画の成功により、計画開始前にはソ連に先行されていた宇宙開発競争において米国の優位が確立したが、そのことがアポロ計画の必要性と意義を減少させることとなり、当初予定されていたアポロ18~20号はキャンセルされて、その予算はスペース・シャトル開発などに転用されることになった。最終的にアポロ計画に投入された費用は当時の金額で254億ドル(2005年の貨幣価値に換算して1350億ドル)とされ、人類史上例を見ない巨大プロジェクトであったが、その成果もまた科学史上に例を見ないほどの偉大な業績であった。計画によって関連科学技術は強力に発展を促され、電子工学や通信工学、情報工学、燃料工学などを中心に飛躍的な進歩を遂げ、それらは多分野に波及してやがて社会を大きく変貌させていく原動力となった。


清の聖祖康熙帝(1654~)没後300年(1722年12月20日=康熙61年11月13日) 壬寅

中国最後の王朝にして満洲人の征服王朝である清の第4代皇帝。姓は愛新覚羅、諱は玄燁。廟号は聖祖、諡号は合天弘運文武睿哲恭倹寛裕孝敬誠信功徳大成仁皇帝(略して仁皇帝)だが、通常は在位時の元号から康煕帝と呼ばれる。第3代皇帝順治帝の第3子として生まれ、1661年皇太子に指名されてまもなく順治帝が亡くなり、後を継いで即位した。1669年、専横を振るっていた重臣を排除して親政を開始した。清に協力した功績で藩王に封じられていた漢人武将の呉三桂らが1673年11月に三藩の乱を起こすと、8年間かけて1681年10月これを鎮圧した。さらに1683年には台湾の鄭氏政権を攻めてこれを降伏させた。1689年には満洲に南下してきていたロシアとの間にネルチンスク条約を締結して国境を画定した。1696年には東トルキスタンに遊牧帝国を形成していたジュンガル部のガルダン・ハーンを敗死させた。内政では自ら質素倹約に努め、国家財政を豊かにして、たびたび減税をおこなった。漢民族の文化への理解が深く、『康煕字典』『全唐詩』『佩文韻府』などを編纂させ、自らも朱子学に傾倒した。日々、朝から夜まで勤勉に政務に励んだことで知られ、満州人皇帝ながら中国史上に残る名君のひとりと評価されている。一方で「文字の獄」と呼ばれる思想言論弾圧・粛清を始めて漢人を抑圧した側面もあった。その在位は61年余りに及び、子の雍正帝、孫の乾隆帝へと続く清朝の隆盛の基礎を築いた。

ルイ・パスツール(~1895)生誕200年(1822年12月27日)

フランスの生化学者・細菌学者。ドイツのロベルト・コッホとともに「近代細菌学の開祖」とされる。1843年にパリの高等師範学校入学し化学を専攻、1846年に博士号取得。ワインの澱からとれる溶液の偏光性の研究から、酒石酸の分子には互いに鏡像の関係にある2種類の形が存在することを実証し、光学異性体の存在を予測した。その後、パスツールの研究は生物学・医学の分野へと進み、「白鳥の首フラスコ」を用いた実験による微生物の自然発生説の否定、低温殺菌法(パスチャライゼーション)の開発、カイコの微粒子病の原因解明、嫌気性菌の発見、病原体の弱毒化によるワクチン製造法の確立とそれを応用した狂犬病ワクチン・炭疽菌ワクチンの開発など、広範囲で多種多様な功績を上げ、医学の進歩に絶大な貢献をした。1887年に開設しみずから初代所長を務めた「パスツール研究所」は生物学・医学の研究・教育をおこなう世界的な非営利民間研究機関として、現在まで業績をあげてきている。

ソビエト連邦成立100年(1922年12月30日)

正式名称はソビエト社会主義共和国連邦。1922~1991年まで存在した世界初の社会主義独裁国家。第一次世界大戦中の1917年3月(ユリウス暦2月)のロシア二月革命によりロマノフ朝のロシア帝国は打倒され、ロシア臨時政府が樹立された。一方、革命のなかで各地に「ソビエト(評議会)」が組織され、事実上の権力を握っていった。レーニン率いるボリシェヴィキはソビエトへの権力集中を訴えて臨時政府との対立を深め、11月(ユリウス暦10月)武装蜂起して臨時政府を打倒し、権力を掌握した。新政府として人民委員会議が成立し、人民委員会議議長(首相に相当)にレーニンが就任した。翌1918年1月にはロシア社会主義連邦ソビエト共和国の成立が宣言され、ソ連軍の前身となる赤軍が設立された。3月にはドイツ等同盟国側と講和条約を結んで第一次世界大戦から離脱したが、連合国によるシベリア出兵による干渉戦争、反革命勢力との内戦が続くことになった。1922年までにボリシェヴィキはロシア内戦に勝利してロシア国内を制圧し、赤軍は旧ロシア帝国領だったウクライナ、ベラルーシ、カフカス地方などへ進出してソビエト政権を確立した。その結果、これらの国々とロシアとの間で統合への動きが強まり、同盟条約の締結を経て、1922年12月30日、連邦結成条約が調印され、ロシア連邦、ウクライナ、白ロシア、ザカフカース連邦の4つのソビエト共和国が対等な立場で加盟するソビエト社会主義共和国連邦の樹立が宣言された。