毎年恒例になりつつある、「○周年を迎える出来事一覧」ですが、2023年版も概要を先に公開し、随時加筆していきます。直近100年くらいは10年区切り、それ以前は50年・100年区切りを目安にしつつ、2023年と同じ干支である「癸卯(みずのとう)」の年は上記条件に関わらず取り上げることにしていますが、従来どおり、出来事の取捨選択の基準は気まぐれで、見落としもあると思いますが、ご了承ください。

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今年(2021年)〇周年を迎える出来事一覧


目次

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1月

日本の太陽暦(グレゴリオ暦)導入(明治改暦)150年(1873年【明治6年】1月1日=旧明治5年12月3日)

江戸時代までの日本は、暦学の進展による改暦を幾度か経つつ太陰太陽暦を長く使用してきた。天保15年元旦(1844年2月18日)をもってそれまでの寛政暦から改暦された天保暦は、明治になっても使用が続けられていたが、太陽暦(グレゴリオ暦)を使用する欧米諸国との交渉、交流の上で不便は否めなかった。さらに、天保暦では明治6年は閏月があるため1年が13ヶ月となっており、月給を13ヶ月分支払わなければならなくなるため、当時財政が逼迫していた明治政府には大きな問題であった。そこで、明治5年11月9日(1872年12月9日)に「改暦ノ布告」を公布し、グレゴリオ暦1873年1月1日に当たる明治5年12月3日を改めて明治6年1月1日とし、以後、太陰暦(天保暦)を廃して太陽暦(グレゴリオ暦)を採用することを定めた。その結果、明治5年12月は2日しかないことになり、それを理由に明治政府は12月の月給支払いを免れ、この点でも財政支出の削減につながった。しかし、公布から施行まで1ヶ月に満たない性急な導入であったこともあり、社会に大きな混乱をもたらした。特に暦の製作・販売をおこなっていた弘暦者(暦師)は甚大な損害を被ったため、政府は損失補填のため、頒暦商社(弘暦者の組織)に対し明治15年までの官暦出版の独占権を付与した。改暦後も、官暦には旧暦(天保暦)が併記されていたが、明治43年(1910年)に旧暦併記は消滅した。ただし、現在でも、国立天文台は、旧暦の作成の基準となる「二十四節気」「朔弦望」を毎年計算して官報で告示しており、これにより旧暦の月日は自動的に決定するため、民間のカレンダーで旧暦を併記するものも少なくない。現在では一般に旧暦が意識される場面はまれになったが、旧暦の日付に基づいて実施される各地の伝統行事も存在している。

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チェコ共和国・スロバキア共和国分離独立(連邦解消)30年(1993年1月1日)

第一次世界大戦で敗北したオーストリア=ハンガリー帝国の崩壊により、その支配下にあったチェコ人とスロバキア人は、両者は一体の民族であるとする「チェコスロバキア主義」に基づき、統一国家として独立、1920年に「チェコスロバキア共和国」が成立した。1938~39年のナチスドイツによる侵略・解体を経て、1945年に共和国が復活し、1948年には共産党による事実上の一党独裁体制が成立、1960年には正式に「チェコスロバキア社会主義共和国」と改名した。1989年、いわゆる「ビロード革命」により共産党独裁政権が崩壊し、翌90年に国名も「チェコおよびスロバキア連邦共和国」と改められた。この民主化・自由化のなかで、連邦を構成するチェコ共和国とスロバキア共和国への連邦政府権限の移管が進むとともに、チェコとスロバキアの双方で連邦解体と分離独立を主張する声が高まりはじめた。背景には、チェコ側では「工業化の遅れているスロバキアの存在が重荷となって経済成長が妨げられる」という見方が広まっていたこと、スロバキア側では「共産党独裁時代にチェコ側が政治権力を独占していた」という不満が存在していたことがあった。1992年の連邦議会選挙で、チェコとスロバキア双方で、連邦解体派が第1党に躍進し、6月には分離に向けた交渉が開始された。8月に連邦解体で合意、11月23日には、連邦が12月31日に終了すると定めた「連邦共和国終了に関する基本法」を採択し、これに基づいて、1993年1月1日午前0時をもって連邦制が解消されて、チェコ共和国とスロバキア共和国が成立した。チェコスロバキア連邦の解体は、同時期のユーゴスラビア内戦とは対照的に一切の流血をもたらすことなく、法にのっとった交渉と手続きによって平和裏に進んだことから、「ビロード離婚」と呼ばれた。「離婚」後のチェコとスロバキアの関係は、連邦時代よりむしろ改善したとされており、現在では両国とも欧州連合に加盟していることもあり、貿易関係も安定している。


ナポレオン3世(1808~)没後150年(1873年1月9日)

フランス第二帝政の皇帝。本名シャルル・ルイ=ナポレオン・ボナパルト。ナポレオン1世(ナポレオン・ボナパルト)の甥。1815年のナポレオン1世の失脚後、亡命生活や獄中生活を送っていたが、1948年、二月革命で七月王政が打倒されると帰国し、6月と9月の2度の憲法制定議会議員補欠選挙に当選した。ついで同年12月の大統領選挙に圧勝して、第2共和政の大統領に就任したが、大統領の権限は弱く、王党派が支配する議会に主導権を握られ、自身の政策の実現を阻まれた。1851年12月、クーデターを決行して反対勢力を一掃し、大統領が全権を握る独裁体制を樹立した。1852年12月には国民投票による支持を得て皇帝に即位し、ナポレオン3世と名乗った。絶対的な権力を手にしたことにより、強力な経済・社会改革が可能になり、金融の近代化、鉄道整備、首都パリをはじめとする都市改造、自由貿易の推進などの実績をあげた。外交面では、クリミア戦争やイタリア統一戦争、アロー戦争への参戦・勝利、アフリカや東南アジアでの植民地拡大、中国での権益獲得などを通じてフランスの国際的威信を高めた。しかし、1861年からのメキシコ出兵では、苦戦の末に、「メキシコ皇帝」に擁立したマクシミリアン大公(オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の弟)を見捨てて撤兵し、1867年2月、メキシコ共和国軍に捕らえられたマクシミリアンが射殺されるという失態を冒し、ナポレオン3世の権威は失墜した。さらに、1870年7月に勃発した普仏戦争では自ら前線に出陣して敗北し、9月、プロイセン軍に降伏して捕虜となった。この報を受けてパリでは暴動が起こり、共和政臨時政府が樹立され、皇后や皇太子は英国へ亡命した。翌1872年3月、フランス政府はナポレオン3世の廃位を正式に宣言、同月プロイセン軍から釈放されたナポレオン3世は妻子の待つ英国へ亡命した。その後、復位を目指してクーデターを計画したが、膀胱結石を患い、1873年1月、結石摘出手術ののち、容態が悪化して亡くなった。


学制に基づく日本初の小学校設立150年(1873年【明治6年】1月15日)

1872年(明治5年)発布の学制において、初等教育は小学校尋常科によって行われることとされた。これに基づき、1873年(明治6年)1月15日、昌平坂学問所跡に、東京師範学校附属小学校が設立された。これが学制に基づく日本初の小学校である(ただし、国の正式な学制によらない小学校も含めれば、1869年(明治2年)に京都の町衆の寄付によって番組(京都洛中の住民自治組織)ごとに設立された「番組小学校」が日本初の近代的な小学校となる)。学制発布から始まった義務教育推進運動は順調には効果を上げず、就学率は1874年(明治7年)で32%、1890年(明治23年)でも49%に過ぎなかった。就学率が9割を超え、学齢期児童の就学が普遍化したのは明治の末から大正初めにかけてである。ともあれ、初等教育制度の確立は、日本における国民国家の形成を支え、近代化を進める土台を築いたといえる。


アルジェリア・イナメナス人質事件10年(2013年1月16日~21日)

アルジェリア東部イナメナスの西南約40kmの天然ガス精製プラントで、2013年1月16日未明、アルカイダ系武装勢力「イスラム聖戦士血盟団」による襲撃事件が発生した。当該プラントはアルジェリア国営企業や英BP社、ノルウェーのスタトイル社などによる合弁企業が経営しており、建設には日本企業の日揮も参加していた。襲撃によりアルジェリア人150人と外国人41人が人質となった。血盟団はアルジェリア政府に逮捕されたイスラム過激派メンバーの釈放やフランス軍によるセルヴァル作戦(国連決議に基づくマリ北部におけるイスラム過激派掃討作戦。1月11日から開始されていた)の停止、人質の身代金、マリ北部への安全な通行などを要求したが、各国ともテロリストとは交渉しないとして要求を拒否した。アルジェリア軍はプラント施設を包囲し、翌17日から攻撃を開始し、ヘリコプターによる空爆などを経て、21日、特殊部隊が施設に突入、制圧して、作戦を終了した。この事件で、日本人10人を含む外国人人質39人が死亡した。事件の背景には北アフリカ・マグレブ地域におけるイスラム過激派の活発な活動があり、この事件も2002年以降現在まで続く「マグレブ反乱」の一部に位置づけられる。


大鵬幸喜(1940~)没後10年(2013年【平成25年】1月19日)

大相撲第48代横綱。1840年、当時日本領であった南樺太の敷香町で、ロシア革命後に日本に亡命してきたウクライナ人の父と秋田県出身の日本人の母との間に生まれた。本名は納谷幸喜(納谷は母方の名字)。父とは幼い頃に生き別れた。第二次大戦末期、ソ連軍が南樺太へ侵攻してきたため、母とともに北海道へ引き揚げたが、母子家庭で貧しい暮らしを送った。定時制高校に通いながら働いていた1956年(昭和31年)、巡業に来ていた二所ノ関部屋に紹介されて入門した。当初から大器として期待され、同年9月場所、本名の納谷で初土俵を踏むと、以降、順調に番付を上げていった。1959年(昭和34年)、新十両昇進に際し、親方から「大鵬」の四股名を与えられた。ひと飛びで九万里彼方の高さまで飛び上がるという伝説上の巨鳥の名であり、漢籍好きの親方が『荘子』からとったものである。その後、1960年(昭和35年)1月場所で新入幕、9月場所で当時史上最年少で新関脇、11月場所では当時史上最年少で幕内最高優勝を果たし、場所後、当時史上最年少での大関昇進を決めた。1961年(昭和36年)7月場所・9月場所で連続優勝し、9月場所優勝同点の柏戸とともに横綱に同時昇進した。横綱昇進も当時史上最年少だった。横綱昇進後は、柏戸と競い合うことで、高度経済成長期の角界の隆盛を支え、「柏鵬時代」と呼ばれる相撲黄金時代を現出した。当時の子どもたちが好きな物を並べた「巨人・大鵬・卵焼き」は流行語になった。一方で、相手や状況に応じて自在に取り口を変えることから「相撲に型がない」と批判されることも多かったが、師匠の二所ノ関は「型がないのが大鵬の型」「名人に型なし」と反論した。横綱在位58場所(歴代4位)、幕内最高優勝32回(歴代2位、当時1位)、幕内最高優勝6連覇2回、45連勝(歴代4位、当時2位)、など歴史に残る記録を多数打ち立て、「昭和の大横綱」と評された。その功績から史上初めて一代年寄を授与され、1971年(昭和46年)5月場所で引退した後は大鵬部屋を創設し、関脇巨砲らを育成した。1977年(昭和52年)、脳梗塞で倒れ、左半身麻痺などの後遺症が残ったが、リハビリに励んで、自力で歩けるまで回復を果たし、1980年(昭和55年)~1996年(平成8年)まで協会理事を務めた。定年後の2005年(平成17年)~2008年(平成20年)までは相撲博物館館長を務め、2009年(平成21年)には角界から初となる文化功労者に選ばれた。2013年1月19日に72歳で亡くなった後、2月に国民栄誉賞が授与された。少年時代を過ごした北海道弟子屈町に「大鵬相撲記念館」があり、父の故郷であるウクライナのハルキウ市にも2001年、大鵬記念館が建設されている。


オードリー・ヘプバーン(1929~)没後30年(1993年1月20日)

ハリウッド映画界で活躍したイギリス人女優。ベルギーで生まれたが、父の家系を通じてイギリス国籍を持っていた。母はオランダ貴族の出身で、第二次世界大戦中、オードリーは母とともにナチス占領下のオランダで過ごし、ナチスによる親族の処刑や食糧不足による栄養失調などの苦難を味わった。戦後の1948年、ロンドンに移り、イギリスで女優としてのキャリアを開始したのち、1951年、米国ブロードウェイの演劇『ジジ』に主演して好評を博し、1953年公開のハリウッド映画『ローマの休日』でアメリカ人新聞記者と恋に落ちるヨーロッパ某国の王女役を演じて絶賛され、アカデミー主演女優賞を獲得して一躍トップ女優となった。その後、1950~60年代を通じて、『麗しのサブリナ』『尼僧物語』『ティファニーで朝食を』『マイ・フェア・レディ』など多くの名作映画に主演して高い評価を得つづけた。1970年代以降の後半生は、女優としての活動は減り、ユニセフ親善大使としての仕事など慈善活動に力を注ぐようになった。1992年末には大統領自由勲章(米国で文民に与えられる最高位の勲章)を授与されることになったが、すでに末期癌におかされていたため授与式には参加できず、翌1993年1月20日、スイスの自宅で亡くなった。


池波正太郎(~1990)生誕100年(1923年【大正12年】1月25日)

戦後日本を代表する時代小説・歴史小説作家。東京市浅草区(現在の東京都台東区)生まれ。小学校卒業後、株式仲買人や旋盤機械工としてはたらき、1943年(昭和18年)召集を受けて海軍に入隊、米子の美保航空基地で電話交換室長を務めていたときに終戦。東京に帰って都職員として働くかたわら劇作家としての活動を始めた。1948年(昭和23年)、劇作家・小説家の長谷川伸を訪ねて門下に入り、指導を受けるようになった。1955年(昭和30年)には東京都を退職し、文筆業に専念することになった。新国劇に多数の脚本を提供する一方、歴史小説・時代小説の執筆も始め、1956~59年にかけて計5回直木賞候補となったがいずれも落選。1960年(昭和35年)、『錯乱』で直木賞受賞。1960年代半ばから、江戸の市井に生きる人々や彼らのあいだに起こる事件を通じて人間の業を描く時代小説を多く手掛けるようになり、『鬼平犯科帳』『剣客商売』『仕掛人・藤枝梅安』『雲霧仁左衛門』など、個性的で魅力的なヒーローが活躍する傑作を次々と世に出し、国民的な人気作家の地位を確立した。長編歴史小説『真田太平記』も含め、その作品は多くがテレビドラマ化されて、原作小説同様に人気を博した。一方、美食家や映画評論家としても知られ、食や旅を題材にした随筆や映画評論も多く執筆している。『鬼平』『剣客』『梅安』の三大シリーズは晩年まで執筆を続けたが、1990年(平成2年)5月3日、急性白血病で亡くなり、結果的にいずれも未完となった。


ベトナム戦争パリ協定締結50年(1973年1月27日)

19世紀末以来フランスの保護国となっていたベトナムでは、第二次大戦終結後、ベトミン(ベトナム独立同盟会)が独立を宣言しベトナム民主共和国を建国したたが、フランスはこれを認めず、第一次インドシナ戦争(1946年12月~1954年8月)が勃発した。戦争の結果、ベトミンは米国の支援を受けたフランスに勝利し、ジュネーブ協定が結ばれてフランス軍は完全撤退した。ベトナムは北緯17度線を境に南北に分離され、南には米国の支援を受けたベトナム共和国が成立した。ソ連・中共の支援を受けて社会主義化を進めるベトナム民主共和国(北ベトナム)によるベトナム統一は東南アジア全体の共産化につながるという危機感を抱く米国は、南ベトナムを軍事的に支援したが、北ベトナムは1960年12月、ベトコン(南ベトナム解放民族戦線)を結成し、南ベトナム国内でのテロ・ゲリラ活動を指導して、南ベトナムの政権を不安定化させた。米国は南ベトナムへの支援と軍事介入を拡大していき、1964年8月、北ベトナムの魚雷艇が米軍の駆逐艦を攻撃したとされるトンキン湾事件を口実に、翌年から北ベトナムへの集中爆撃(北爆)と戦闘部隊の派兵を開始し、ベトナム戦争が本格化した。米国は圧倒的な戦力を投入して戦況を好転させようとしたが、北ベトナムは中ソ両国の支援を受けつつ地の利を生かしたゲリラ戦を展開して米軍を苦しめ、戦争は泥沼化した。戦場の生々しい状況がテレビ報道を通じて米国本土に伝えられ、反戦運動が盛り上がり、激化していった。北爆を始めた民主党のジョンソン大統領は再選を断念し、1969年1月、「名誉ある撤退」と「法と秩序の回復」をとなえる共和党のニクソン大統領が就任した。ニクソン大統領は秘密裏に北ベトナム政府との交渉を開始すると同時に、ホーチミン・ルート(北ベトナムから南ベトナムのベトコンへの支援ルート)の遮断を目的としたラオス・カンボジアへの侵攻、中国への接近、北爆の再開、などによって北ベトナムへの圧力を強めた。このような動きの中、1972年秋頃から合意に向けた交渉が加速し、1973年1月23日の仮調印を経て1月27日、戦争終結を定めたパリ和平協定が締結された。協定では「米軍の全面撤退と外部援助の禁止」「北ベトナムに捕らえられた米軍捕虜の解放」「南北統一総選挙まで北緯17度線を南北間の停戦ラインとすること」などが合意され、1月29日、ニクソン大統領は「ベトナム戦争終結」を宣言した。米軍の全面撤退と南ベトナムへの援助激減により、北ベトナムの南ベトナムに対する軍事的優位は決定的になった。当初は米軍の再介入を恐れて慎重だった北ベトナムは、徐々に南への攻勢を強め、1975年3月になって南への全面攻撃を開始した。南ベトナム軍はまともな抵抗ができず総崩れとなり、4月30日、南ベトナムの首都サイゴンが陥落、南ベトナム政府は崩壊して、ベトナム戦争は完全に終結した。


2月

米国コロンビア号空中分解事故20年(2003年2月1日)

米国の宇宙船スペースシャトル・コロンビア号が地球への帰還の直前、大気圏再突入時にテキサス州とルイジアナ州の上空で空中分解した事故。コロンビア号はスペースシャトルの2号機で、実際に宇宙に到達した最初のスペースシャトルであり、1981年4月の初飛行時の「STS-1」以来、事故時の「STS-107」まで合計28回のミッションを遂行した。1994年7月の「STS-65」では日本人宇宙飛行士の向井千秋が搭乗している。事故原因は、発射の際に外部燃料タンクから剥落した断熱材破片が左主翼を直撃して耐熱システムを損傷させた結果、大気圏再突入の際の高温に耐えられなかったことであった。断熱材破片の直撃により左主翼には15~20cmの穴が開き、大気圏再突入の際にこの穴から高温の空気が翼の構造内に入り込み機体の分解につながった。2003年2月1日午前8時44分、コロンビア号は大気圏に再突入したが、午前8時53分、地上からも異常が観測され始め、午前9時00分、テキサス州ダラス周辺で機体が無数の破片に分解する光景が目撃された。搭乗した宇宙飛行士7名は全員死亡し、遺体を含む残骸はテキサス州東部からルイジアナ州西部、アーカンソー州西部までの広範囲の二千ヶ所以上の地点で発見・回収された。2月4日に追悼式典が開催され、翌年、飛行士全員に宇宙名誉勲章が贈られた。事故後、スペースシャトルの飛行計画は停滞を余儀なくされ、飛行が再開されたのは2年以上経過した2005年7月だった。


新島襄生誕180年(1843年2月12日【天保14年1月14日】) 癸卯

同志社大学の前身である同志社英学校を設立した明治時代の教育家。上州安中藩の藩士の長男として生まれた。友人から貰い受けた地図で見た米国に興味を持ち、幕府の軍艦操練所に入って洋学を学んだ。漢訳の聖書に触れたのを機に米国へ密航してキリスト教を学ぶことを決意する。元治元年6月(1864年7月)、函館港から米船ベルリン号で出航し、翌年、米国ボストンに上陸。航海中に船長から「ジョー」と呼ばれたことから、後にこれに「襄」の漢字を当てて名前にした。1866年に洗礼を受け、1870年にはアーモスト大学を卒業して日本人初の学士(理学士)となった。1872年、岩倉使節団の副使官として訪米していた木戸孝允から英語力を買われて通訳として使節団に加わり、欧州各国を歴訪した。1874年(明治7年)9月、宣教師試験に合格し、11月、日本に帰国して、布教とともにキリスト教主義教育をおこなう学校の設立に向けた準備を開始する。木戸孝允の紹介により京都を学校設立の地に定め、府知事槇村正直、府顧問山本覚馬の賛同を得て明治8年(1875年)11月、「官許同志社英学校」を開校し、初代校長となった。また、この縁で山本覚馬の妹・八重と結婚した。明治10年(1877年)には同志社女学校(同志社女子大学の前身)を設立、明治13年(1880年)から大学設立に向けた活動を始め、明治19年(1886年)には日本初の看護婦養成機関である「京都看病婦学校」を設立した。明治21年(1888年)、教え子の徳富蘇峰の協力により井上馨、大隈重信、岩崎弥之助、渋沢栄一ら政財界の有力者から大学設立への寄付金の約束をとりつけ、「同志社大学設立の旨意」を全国の主要新聞・雑誌に掲載した。明治22年(1889年)11月、心疾患で倒れ、翌年1月23日亡くなった。没後も大学設立の遺志は引き継がれ、明治45年(1912年)4月、専門学校令による同志社大学(法令上は専門学校)が開学し、大正9年(1920年)4月には大学令に基づいて正式な大学に昇格した。


円の変動相場制移行50年(1973年【昭和43年】2月14日)

第二次世界大戦後の世界経済は、「金1オンス=35米ドル」で金と交換可能な米ドルを基軸通貨とする固定為替相場制が取られていた。米国の経済力に支えられた、この「ブレトン・ウッズ体制」と呼ばれる枠組みにより、西側諸国の経済は戦後復興とそれに続く高度成長を実現した。日本も1ドル=360円の固定相場制のもとで驚異的な高度経済成長を達成した。しかし1960年代末になると、米国の国際収支の急激な悪化がドル危機を招き、1971年8月15日、米国ニクソン大統領はドルと金の交換停止を発表した(ニクソン・ショック)。これを受けて西欧諸国は変動相場制に切り替えたが、日本は固定相場制を維持したため、東京外国為替市場に国外からのドル売りが殺到、日銀はドル買いで対抗したが買い支え切れなくなり、8月28日、日本も変動相場制に切り替えた。しかし、同年12月、米国ワシントンでG10蔵相・財務相会議が開催され、「金1オンス=38米ドル」に交換レートを引き上げた上でドルの金兌換を再開し、ドルと各国通貨との交換レートを改定した上で固定相場制も再開することとなり、日本円は1ドル=308円に切り上げられた(スミソニアン協定)。しかし、この協定の効果は一時的なものにとどまり、各国の国際収支不均衡は是正されず、1972年6月には英ポンドが、73年1月にはスイスフランが変動相場制へ移行した。波乱の国際通貨情勢のなか、73年2月に入ると激烈な通貨投機が発生し、主要国は為替市場を閉鎖して、対ドル交換レートを切り上げた。日本は田中角栄内閣の愛知揆一蔵相の裁断により、2月14日、変動相場制へ再度移行した(移行時1ドル=277円から開始)。同じ2月にイタリア・カナダも変動相場制意へ移行、3月にはEC(欧州共同体)6ヶ国にスウェーデン・ノルウェーを加えた8ヶ国も変動相場制(域内では固定、域外に対しては変動という共同フロート)へ移行し、以後、主要国の通貨が固定相場制に復帰することはなかった。その後、円相場は長期的には円高の流れが続き、2011年末には1ドル=76円台をつけたが、2012年から日本の金融緩和もあり円安基調に転じた。2022年には日米の金利差拡大により円安が急加速し、10月に一時150円台に突入した。


アンボイナ事件400年(1623年2月10日~3月9日)

モルッカ諸島アンボイナ島にあるイギリス東インド会社商館をオランダが襲撃し、商館員を全員殺害した事件。香料諸島とも呼ばれたモルッカ諸島にあるアンボイナ島はクローブ(丁字)などの香料を産出したため、大航海時代のヨーロッパ諸国が進出を図った。16世紀はじめにポルトガルが進出し同島の香料を独占したが、16世紀末にオランダがポルトガル勢力を駆逐して香料貿易を開始した。1615年にはイギリスも島に進出して両国が激しく争うようになったため、1619年に両国政府が協定を結び、共同で香料貿易を行って利益を分配することなどを取り決めたが、現地ではこの協定が守られず、対立は収束しなかった。1623年2月10日夜、オランダ軍の日本人傭兵七蔵が、城砦の守備兵から城の構造や兵数を聞き出そうとしているところを怪しまれてオランダ当局に拘束され、拷問の末に、イギリス側がオランダ城砦の襲撃を計画していること、イギリス側から賄賂を受け取ってオランダ側の情報を探っていたことを自白した。さらに2月15日には酔っ払ったイギリス人外科医アベル・プライスが逮捕され、彼も拷問によってイギリスの襲撃計画を自白させられた。2人の自白を受けてオランダ当局はイギリス東インド会社の商館員らを捕らえ、拷問によって襲撃計画の存在を認めさせたうえで、2月27日、全員に死刑判決を下した。そのうちの6名(イギリス人4名、日本人2名)は恩赦を受け、それ以外の20名(イギリス人10名、日本人9名、ポルトガル人1名)は、3月9日処刑された。当時、イギリス側には非武装の商館員しかおらず、襲撃計画が実際に存在したかどうか疑問とする見方が有力で、現地のオランダ当局が貿易独占をねらって自作自演で仕組んだ陰謀とする説もある。いずれにせよ、この事件で東南アジアでの拠点を失ったイギリスは、アジアでの新たな拠点を求めてインドへの進出を開始し、やがてインドを中心とする植民地帝国をアジアに築くことになる。一方のオランダはモルッカ諸島の香料貿易を独占することに成功したが、その後、香料価格の下落により貿易の利益は減少し、さらに英仏両国との戦争も度重なり国力を消耗して繁栄を失っていった。


小林多喜二(1903~)没後90年(1933年【昭和8年】2月20日)

日本のプロレタリア文学を代表する小説家。秋田県生まれ。4歳のとき北海道の小樽に移り、伯父の経営する工場で住み込みで働きながら小樽商業学校・小樽高等商業学校へ進学した。在学中から文学活動に取り組むかたわら、労働運動への参加も始めた。卒業後は北海道拓殖銀行に在職しながら文学活動、労働運動を続け、1929年5月には代表作となる『蟹工船』を発表してプロレタリア文学の旗手となったが、これによって特別高等警察から要注意人物として警戒の対象となり、11月には「作品で銀行を攻撃した」との理由で拓銀から諭旨解職された。翌1930年、東京へ転居して日本プロレタリア作家同盟書記長となった。同年5月、日本共産党への資金援助の容疑で逮捕、翌月釈放後に再逮捕され、8月に治安維持法違反で起訴されて刑務所に収容された。1931年1月保釈され、10月に当時非合法の日本共産党に入党した。1933年2月20日、特高に逮捕され、築地警察署での取り調べで拷問を受けて重体となり、搬送先の病院で亡くなった。没後も代表作『蟹工船』はプロレタリア文学の名作として評価されてきたが、21世紀に入り、非正規雇用労働者やワーキングプアの増大、ブラック企業の問題化などを背景に注目が高まり、2008年には新潮文庫『蟹工船・党生活者』が50万部を超えるベストセラーとなった。


斎藤茂吉没後70年(1953年【昭和28年】2月25日)

大正~昭和前期の歌人。近代短歌を代表する歌人のひとり。山形県金瓶村(現・上山市金瓶)に守谷家の三男として生まれた。15歳のとき、東京で開業していた同郷の精神科医斎藤紀一の養子候補として上京し、斎藤家に寄寓して中学校に進学した。中学在学中から作歌を開始し、第一高等学校(現・東京大学教養学部)に進学後、正岡子規に傾倒し、東京帝大医科大学に入学後には、子規の弟子である伊藤左千夫の門下に入り、子規派の雑誌『アララギ』に作品を発表するようになった。1913年(大正2年)、処女歌集『赤光』を刊行し、歌壇内外に大きな反響を呼んだ。翌年には斎藤紀一の長女輝子と結婚して婿養子となった。1921年(大正10年)から1925年(大正14年)まで精神病学研究のため欧州に留学。留学中に義父斎藤紀一の青山脳病院が全焼したため、帰国後は病院再建に奔走し、斎藤紀一没後は経営を引き継ぎ、病院を復興させた。生涯に全17冊の歌集を発表し、約18,000首の歌を遺した大歌人であるだけでなく、柿本人麻呂や源実朝などの評伝、研究書のほか、各種の随筆にも文才を発揮した。医師として友人の永井荷風や芥川龍之介の診療もおこなったが、芥川が自殺に用いた睡眠薬は茂吉が処方したものであったため、大きな精神的衝撃を受けた。1951年(昭和26年)11月、文化勲章受章。翌年以降、認知症が進み、1953年2月25日、心臓性喘息で亡くなった。長男は精神科医・随筆家の斎藤茂太、二男は精神科医・小説家の北杜夫。代表歌に「のど赤き玄鳥(つばくらめ)ふたつ屋梁(はり)にゐて垂乳根の母は死にたまふなり」「あかあかと一本の道とほりたりたまきはる我が命なりけり」など。


3月

小林秀雄没後40年(1983年【昭和58年】3月1日)

昭和期の文芸評論家。日本の近代文芸評論を確立した。東京市神田区(現・東京都千代田区)生まれ。東京帝大文学部仏蘭西文学科卒業後、1930年(昭和5年)から翌年まで『文藝春秋』に文芸時評を連載して批評家としての地位を確立した。1932年(昭和7年)から明治大学文芸科講師、1938年(昭和13年)から1946年(昭和21年)まで教授をつとめた。フランス象徴派詩人たちやドストエフスキー、幸田露伴、泉鏡花、本居宣長などの著作・思想のほか、モーツァルトの音楽やゴッホを中心とするフランス印象派絵画などを対象に、深い造詣と鑑識眼に基づく幅広い評論活動をおこなった。個性的な文体と詩的表現を持つその批評スタイルは、「創造的批評」とも呼ばれ、さまざまな分野の評論家や知識人に大きな影響を与えた。1967年(昭和42年)、文化勲章受章。1982年、膀胱腫瘍のため膀胱全摘手術を受けたが、翌1983年に入って腎不全となり、3月1日、尿毒症と呼吸循環不全により亡くなった。


ヨシフ・スターリン没後70年(1953年3月5日)

ソビエト連邦の政治家。1878年、ロシア帝国支配下のグルジアで靴職人の三男として生まれた。神学校在学中にマルクスの著作に触れてマルクス主義者となり、神学校を去って活動家となった。1903年には逮捕され、シベリアに流刑となったが、翌年脱走してグルジアへ戻った。ロシア社会民主労働党がボリシェビキとメンシェビキに分裂すると、ボリシェビキの側につき、やがて戦闘部隊の組織や活動資金の調達によってボリシェビキの指導者レーニンから信頼を得るようになった。1908年以降、逮捕と流刑、脱走を何度もくりかえしながら活動を続け、ボリシェビキ内での地位を高めていった。1917年のロシア二月革命後に流刑先から首都ペトログラードへ帰還し、レーニンとともに十月革命を主導して臨時政府を打倒し、ボリシェビキによる独裁政権を樹立した。1922年4月、レーニンによってロシア共産党(ボリシェビキ)の書記長に任命され、レーニンとの議論を経て1922年12月にはソビエト社会主義共和国連邦を成立させた。1924年1月のレーニン死去後は、トロツキーらライバルを排除して後継者の地位を確立した。1928年からは第一次五ケ年計画を実施して農業の集団化や重工業の強化を推進してソ連の社会主義経済の基盤を築いたが、一方で政策に反対する者には「人民の敵」というレッテルを貼り、激しい攻撃と弾圧を加えた。1930年代の「大粛清」によって反対派は収容所への収監、シベリアなどへの追放、拷問、強制労働、処刑の対象となり、200万人前後が死亡したとも言われる。大粛清の結果、反対派は一掃されてスターリンは絶対的な独裁権力を掌握した。1939年、ナチスドイツと独ソ不可侵条約を締結し、ドイツがポーランドに侵攻して第二次世界大戦が勃発すると、秘密協定に基づいて独ソでポーランドを分割した。1941年6月、ドイツが不可侵条約を破ってソ連に侵攻すると、甚大な損害を出しながらも徹底抗戦を貫き、英米を中心とする連合国の支援を受けて反撃に転じ、1945年5月、ドイツの首都ベルリンを陥落させ、東欧を占領下に置いた。8月には中立条約を破棄して対日参戦し、日本降伏後も攻撃を続けて南樺太や千島列島を占領した上で、北海道北部への侵攻を米国に提案したが、拒否された。また、60万人前後の日本軍捕虜と民間人をシベリアに抑留して強制労働に就かせ、約6万人を死亡させた。第二次世界大戦後は、社会主義陣営の盟主となった超大国ソ連の指導者として自由主義陣営と対峙し、東欧の衛星国を支配下に置いた。中国の国共内戦では中国共産党を支援して中華人民共和国を成立させ、朝鮮戦争では北朝鮮を支援するなど、世界規模での社会主義・共産主義陣営の拡大をすすめながらも、米国との正面衝突は慎重に回避した。1953年3月1日、寝室で脳卒中の発作をおこして倒れ、4日後に亡くなった。


パール・バック没後50年(1973年3月6日)

米国の小説家。1892年6月、ウェストバージニア州に生まれたが、生後まもなく宣教師である両親とともに中国江蘇省にわたり、英語と中国語のバイリンガル環境で育った。1911年、米国に帰って大学に入学したが、卒業後は宣教師として中国に戻った。1930年、小説『東の風・西の風』で作家デビューすると、翌年、『大地』が大ベストセラーになり、ピューリッツァー賞を受賞した。1932年、ニューヨークでの講演で、中国における外国人宣教師の存在理由に疑問を呈したことがもとで長老派伝道委員から非難を受けて宣教師の職を辞することとなり、1934年中国を離れた。彼女自身はいずれ中国に戻ってくることを信じていたが、1949年に共産中国が成立すると、中国への入国を一貫して拒否され、以後二度と中国に戻る機会はなかった。1938年に、『大地』の業績により米国人女性として初めてノーベル文学賞を受賞した。小説、伝記、ノンフィクション、絵本など多彩な執筆のほか、女性の権利や人種平等、異文化理解の提唱者としても活動し、養子縁組の資格のない子供たちを支援する組織を設立したり、韓国やタイ、フィリピンなどに孤児院を設立したりしたほか、自身も6人の孤児を養子として育てた。晩年はバーモント州で隠遁生活を送っていたが、1973年3月6日、肺がんのため亡くなった。代表作『大地』には『息子たち』『分裂せる家』という続編があり、合わせて『大地の家』という三部作となっているが、日本では通常、この三部作を合わせて『大地』として出版される。


勝海舟生誕200年(1823年3月12日【文政6年1月30日】)

幕末から明治にかけての武士・政治家。神戸海軍操練所を設立するなど、日本の海軍の創設のために尽力、貢献した。戊辰戦争では、新政府軍の西郷隆盛と交渉して江戸城の無血開城を実現させた。

→ 勝海舟


笠智衆没後30年(1993年【平成5年】3月16日)

日本の俳優。1904年(明治37年)5月13日、熊本県玉名郡玉名村(現・玉名市)で、住職の次男として生まれた。旧制東洋大学に進学して上京、1925年(大正14年)に松竹蒲田撮影書の俳優研究所の研究生募集に合格して入所した。同年7月に父が亡くなりいったん住職を継いだが、翌年1月に兄に住職を譲って撮影所に復帰し、以後10年以上、大部屋俳優時代が続いた。1936年(昭和11年)公開の小津安二郎監督『一人息子』が出世作となり、以後、主役や主要脇役で出演するようになった。その後、小津作品には欠かせない存在となり、戦後の小津作品には全て出演した。出世作の『一人息子』で初めて老け役を演じて以降、多くの作品で老け役で好演し、日本を代表する老け役となった。小津作品では多く父親役を演じ、「日本の父親」像を確立したといわれる。1969年開始の映画『男はつらいよ』シリーズでの柴又帝釈天(題経寺)住職「御前様」役でも親しまれ、シリーズ45作目『男はつらいよ 寅次郎の青春』(1992年)が遺作となった。1965年の『たまゆら』主演以降、テレビドラマにも多く出演した。晩年は膀胱癌を患い、病とたたかいながら現役を続けたが、1993年(平成5年)3月16日、88歳で亡くなった。


吉野作造没後90年(1933年【昭和8年】3月18日)

大正~昭和初期の政治学者・思想家。民本主義を提唱し、大正デモクラシーの高揚に大きな影響を与えた。1878年(明治11年)1月29日、宮城県志田郡大柿村(現・大崎市)に糸綿商吉野屋の長男として生まれた。1900年(明治33年)、東京帝大法科大学に進学して上京、卒業後、大学院進学、同大工科大学講師、中国での教職、欧米への留学などを経て、1913年(大正2年)から東京帝大法科大学で政治史講座を担当した。1916年(大正5年)、『中央公論』に評論「憲政の本義を説いて其有終の美を済すの途を論ず」を発表して、民本主義を提唱、大正デモクラシーを思想的に主導する論客となった。「国家の主権が法理上人民にある」とする民主主義とは異なり、民本主義は、主権が君主にあるか人民にあるかを問うことなく「主権者の主権行使は人民の利福を目的とし人民の意向に基づかなければならない」とするものだった。これにより、天皇を統治権の総攬者とする帝国憲法下でのdemocracy実現を可能と主張したものである。晩年には無産政党と関わるようになり、政治的立場をオールドリベラルから社会民主主義へと移していき、民本主義という言葉の使用もやめて民主主義と表現するようになった。1933年(昭和8年)1月、肋膜炎を発症してサナトリウムに入院し、3月18日、55歳で亡くなった。


独ナチス独裁政治確立90年(1933年3月23日)

1933年1月30日、アドルフ・ヒトラーがドイツ首相に就任し、国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)が政権についた。同3月の総選挙でナチスは288議席を得て第一党となったが、過半数には届かず、52議席の国家人民党との連立によって過半数を得ていた。ヒトラーは選挙中に起きた国会議事堂放火事件を利用して、ヒンデンブルク大統領に緊急命令を布告させ、国会議員を含む多数の共産党員・社会民主党員を逮捕、拘禁し、また州政府への命令権限やナチスによる州政府へのクーデターを通じて州政府を掌握していった。その結果、ヒトラーとナチスは国会での議席数にかかわらず独裁的な権力を手にしつつあったが、ヒトラーはさらに憲法の範囲を超える全権を自らに委任する全権委任法の制定を求めた。3月21日、ナチスと国家人民党は共同で全権委任法(民族および国家の危機を除去するための法)案を国会に提出した。野党第2党の共産党は全員が拘禁や逃亡中で出席できず、野党第3党の中央党はヒトラーとの交渉の末に賛成を決め、野党第1党の社会民主党のみが反対した。3月23日、臨時国会議事堂の周辺をナチスの突撃隊・親衛隊が包囲するなかで法案の審議と採決がおこなわれ、賛成441、反対94で可決された。全権委任法の成立により、政府(ヒトラー内閣)に立法権が与えられ、その政府立法は国会・上院・大統領の存在と権限に関わるものでない限り憲法に違反することができることになった。ヒトラーによる独裁に「合法性」が与えられ、第一次大戦後ドイツのワイマール共和政が名実ともに崩壊した。同法の成立後も大統領権限は不可侵とされ、首相や閣僚の任免権、国軍最高指揮権はひきつづきヒンデンブルク大統領にあったが、大統領はすでに病床にあり、ヒトラーを止められる者はもはや存在しなかった。ヒトラーはナチ党以外の政党、政治団体、労働組合を解散させ、一党独裁体制を確立していった。


徳川幕府成立420年(1603年3月24日【慶長8年2月12日】) 癸卯

慶長5年9月(1600年10月)、豊臣政権の内部対立に端を発して起こった関ヶ原の戦いで、東軍総大将として勝利をおさめた徳川家康は、戦後の論功行賞で、西軍諸大名の取り潰しや減封をおこない、東軍諸大名には西軍諸大名の旧領や豊臣直轄地を割譲して分け与えた。形式上は豊臣秀頼への謀反に対する処罰と、それを討伐したことに対する褒賞というものであったが、家康の意向によって全国の大名に対する賞罰が決定され、豊臣家も含む諸大名の所領の増減・変更が決定されたことで、家康が事実上、全国の諸大名を支配下に置いたことが明らかになった。慶長8年2月12日(1603年3月24日)、家康を征夷大将軍に任じる宣旨が下り、これにより家康は豊臣家から独立した独自の公権力としての立場について形式的根拠も得た。一般にこれをもって徳川幕府(江戸幕府)の始まりとしている。2年後には息子の秀忠に将軍職を譲り、以後代々徳川家が武家の棟梁として将軍職を継承し天下を治めていくことを明確に示した。以後、幕末の動乱にいたるまでの間、島原の乱や露寇事件など一時的な例外を除き、国内的にも対外的にも世界史上まれに見る長期的な平和が徳川幕府のもとで続くことになる。


日本、国際連盟脱退90年(1933年【昭和8年】3月27日)

1931年(昭和6年)9月に勃発した満州事変の結果、翌年2月初めには関東軍は満洲のほぼ全土を占領下に置き、3月1日には清朝最後の皇帝溥儀を執政として満洲国が建国された。中華民国政府は事変発生直後から国際連盟に提訴して事実調査を求めていたが、1932年3月、リットン調査団(国際連盟日支紛争調査委員会)が派遣され、満洲国、中華民国の各地を調査して10月に報告書を提出した。報告書では、事変における日本側の活動を自衛行為と認めず、満洲国についても住民の自発的意志による独立とは認めなかった。一方で、満洲の発展は日本の努力によるものであること、中華民国政府の権力が脆弱で日本人居留民が保護されていないこと、日本が満洲に持つ特殊権益は尊重されるべきことを認めるなど、日本側にも配慮を示した。そして中華民国側の主張する事変以前への原状回復も、日本の主張する満洲国の承認もともに退け、中華民国の主権のもとで十分な行政権を持つ自治政府を満洲に樹立し、その自治政府を国際連盟が派遣する外国人顧問が指導すること、満洲を非武装地帯とすること、日中両国は不可侵条約を結ぶこと、などを提言した。報告書の内容は、日本にとっては「満洲国の国際承認」という名を捨てて実を取ることを可能にするものであったが、報告書提出前の9月15にすでに満洲国を承認していた日本はこれに反発した。1933年2月24日、連盟総会で、リットン報告書に基づいて作成された「支日紛争に関する国際連盟特別総会報告書」の採択がおこなわれ、賛成42、反対1(日本)、棄権1(シャム)、投票不参加1(チリ)の結果で承認された。松岡洋右率いる日本代表団はこの結果を不服として議場から退席、3月27日、日本は国際連盟に対し脱退を通告した。(正式に脱退の効力が発生したのは、2年間の予告期間を経た1935年3月27日)。


遠藤周作生誕100年(1923年【大正12年】3月27日)

昭和~平成期の小説家。1923年(大正12年)、東京巣鴨で銀行員の父とバイオリニストの母の間に次男として生まれた。父の転勤により中国・大連(当時日本の租借地)で幼少期を過ごした。1933年(昭和8年)、両親の離婚により、母に連れられて日本に帰国し、神戸に住む伯母の家に同居した。伯母の影響でカトリック教会に通うようになり、1935年6月、母・兄とともに洗礼を受けた。灘中学校卒業後、旧制高校を目指して浪人したが、合格はかなわず、1943年(昭和18年)4月、慶應義塾大学文学部予科に入学した。第二次世界大戦の戦局が悪化し、周作も徴兵されたが、肋膜炎などのために入隊が大幅に遅れ、入隊の前に終戦となった。終戦後は大学に戻り、1947年、「神々と神と」で批評家デビュー、1948年、慶應義塾大学文学部仏文科を卒業。1950~53年にはカトリック文学を学ぶため、フランスに留学した。1955年(昭和30年)、小説「白い人」で芥川賞を受賞。1957年には、戦時中の九州帝国大学における生体解剖事件を題材にした小説「海と毒薬」を発表して話題を呼び、小説家としての地位を確立した。1966年(昭和41年)には、代表作「沈黙」で江戸時代のキリシタン弾圧を題材として神と信仰の意義を描いた。また、1963年ころから「狐狸庵山人」という号を名乗るようになり、おもに身辺雑記を中心とした随筆などユーモア作品の中で自称したことから、世間一般にも「狐狸庵先生」として認知されるようになった。結核で片肺を切除するなど度々の大病経験から「心あたたかな病院を願う」キャンペーンを始めるなど社会活動にも力を注いだ。1996年9月、脳出血を起こした後、誤嚥性肺炎を併発し、9月29日呼吸不全により73歳で亡くなった。長男はフジテレビ社長(2023年1月現在)の遠藤龍之介。


片岡千恵蔵没後40年(1983年【昭和58年】3月31日)

昭和戦前・戦後期の俳優。1903年(明治36年)3月30日、群馬県新田郡藪塚本町(現・太田市)生まれ。本名植木正義。芝居好きの父親の影響で幼い頃から芝居に熱中した。9歳で十一代目片岡仁左衛門主宰の片岡少年劇に入門し、片岡十八郎の芸名で初舞台を踏んで歌舞伎界に入った。その後、片岡千栄蔵を名乗って名題まで昇進したが、歌舞伎界の門閥制度に不満を感じるようになり、1927年(昭和2年)、マキノ・プロダクション御室撮影所に入社して片岡千恵蔵を名乗り映画界での活躍を始めた。翌年5月にはマキノを退社して片岡千恵蔵プロダクションを創立し、チャンバラに頼らない人間ドラマを主とした時代劇を制作して数々の名作を送り出した。1937年(昭和12年)、千恵プロを解散して従業員とともに日活(1942年戦時統合で大映となる)に入社し、阪東妻三郎、嵐寛寿郎、市川右太衛門とともに「時代劇四大スタア」と呼ばれた。1948年(昭和23年)大映を退社し、翌年、東横映画へ入社した。東横映画は合併により東映株式会社となり、千恵蔵は東映時代劇の重役スターとして活躍を続けた。遠山金四郎を演じた「いれずみ判官」シリーズは千恵蔵の十八番シリーズとなった。1960年代に入ると若手スターに主役を譲って脇役を演じることが多くなったが、貫禄ある演技で存在感を示した。1972年を最後に映画出演はなくなり、テレビドラマに活動の舞台を移し、時代劇やホームドラマに出演した。1982年から腎臓病の悪化で入院していたが、翌年3月31日、腎不全のため80歳で亡くなった。


4月

英女王エリザベス1世没後420年(1603年4月3日【ユリウス暦3月24日】) 癸卯

16世紀後半~17世紀初めのイングランド女王。1533年9月7日(ユリウス暦)、テューダー朝第2代君主のヘンリー8世と彼の二人目の王妃アン・ブーリンとの間に生まれた。2歳のとき、母が処刑されたため庶子とされ、王位継承権を剥奪されたが、その後、最後の王妃キャサリン・パーの説得により、ヘンリー8世はエリザベスと異母姉メアリーの王位継承権を復活させた。1547年、父ヘンリー8世の死去により、異母弟エドワード6世が即位すると、彼を取り巻くプロテスタント貴族たちにより急進的なプロテスタント化政策が推し進められ、メアリーとエリザベスの王位継承権は再び剥奪された。しかし、1553年、エドワード6世が15歳で亡くなると、彼が指名した後継者のジェーン・グレイはすぐに支持を失って9日間の在位で廃位されて処刑された。かわって異母姉メアリーが即位してメアリー1世となり、カトリックへの復帰を鮮明にしてプロテスタントに対し苛酷な弾圧を加え、「流血のメアリー」と呼ばれた。エリザベスは反乱への加担を疑われて一時期幽閉されたが、処刑を免れ、メアリー1世が子を産まないまま病に倒れたことで、王位継承者となった。1558年11月17日(ユリウス暦)、メアリー1世の死去により即位してエリザベス1世となった。エリザベス1世自身はプロテスタントだったが、カトリックを刺激することを避けて現実的な宗教政策をとり、イングランド国教会体制を確立して、イングランドの国民意識形成を促進した。有能な顧問団にささえられた44年間の統治はイングランドに安定と繁栄、国際的地位の向上をもたらし、1588年にイングランド軍がスペインの無敵艦隊に勝利したことで、英国史上もっとも偉大な勝利者としてたたえられた。生涯結婚しなかったため「処女王」と呼ばれて崇拝の対象となった。ユリウス暦1603年3月24日(グレゴリオ暦4月3日)、69歳で亡くなり、テューダー朝は断絶した。スコットランド王ジェームズ6世がイングランド王位を継承してジェームズ1世となり、ステュアート朝が始まったが、ステュアート朝王家への不満が高まるにつれ、エリザベス1世の治世は黄金時代として回顧されるようになり、その高い評価は後世まで影響して、英国が外国の脅威に直面するたびに、英国を勝利に導くシンボルとして神話化されたエリザベス1世が取り上げられてきた。


マーガレット・サッチャー英国元首相没後10年(2013年4月8日)

20世紀後半の英国の政治家。1925年10月13日、食糧雑貨商の家に生まれた。父親は市長も務めた名望家であった。オックスフォード大学で化学を専攻し、卒業後は研究者となったが、1959年、保守党から下院議員に立候補、当選して政治家人生を歩み始めた。1970年には保守党のヒース内閣に教育科学相として入閣した。1975年2月の保守党党首選挙に立候補し、現職のヒースを破って党首に就任した。その強硬な保守的政治姿勢に対し「鉄の女」という批判がなされたが、サッチャー自信はこの呼び名を気に入り、メディアにも取り上げられて彼女の代名詞として定着した。1979年5月総選挙で保守党を大勝させて政権を奪還し、英国史上初の女性首相に就任した。サッチャー首相は新自由主義に基づき、国有企業の民営化と規制緩和、金融システム改革を推進していった。彼女の強力なリーダーシップによって断行されたこれらの政策は「サッチャリズム」と呼ばれ、英国経済の競争力回復に寄与したが、一方で公的サービスの低下、失業者の増大、富裕層の優遇など負の側面に対する批判にも晒された。1982年3月に勃発したフォークランド紛争では強硬姿勢を貫いてフォークランド諸島を奪還し、国民から熱烈に支持され、その後の総選挙で勝利して長期政権への道を開いた。在任期間終盤には人頭税導入を提唱して国民から強い反発を受け、また欧州統合への懐疑的な姿勢は財界からの懸念を招き、求心力が低下して、1990年11月の保守党党首選で1回目投票での再選を決めることができず、11月22日、首相と保守党党首の辞任を表明、28日に退任した。首相在任期間は11年208日間に及び、20世紀以降の英国で最長である。首相退任後は1992年6月から貴族院議員となり、政治の表舞台から退いた。2008年には、長女によって認知症が進行していることが明らかにされ、2013年4月8日、脳卒中により87歳で亡くなった。


パブロ・ピカソ没後50年(1973年4月8日)

キュビズムの創始者として知られる世界的画家。1881年10月25日、スペインのマラガで生まれた。ラ・コルーニャやバルセロナの美術学校で学んだ後、1897年秋、マドリードの王立美術アカデミーに入学するが、その教育体制に失望し、翌年6月中退した。その後、バルセロナやパリで個展を開催して評価を得たのち、本格的にパリに拠点をおいて活動をはじめた。ピカソは作風をめまぐるしく変化させながら、時代を先取りする作品を生み出し続けた。「青の時代」「薔薇色の時代」「アフリカ彫刻の時代」を経て、1907年には、キュビズムの端緒となる『アビニヨンの娘たち』が生まれた。その後、「プロトキュビズムの時代」「分析的キュビズムの時代」「総合的キュビズムの時代」とキュビズムを発展させていった。しかし、キュビズムの共同作業者を失ったことやルネサンスやバロックの名品を目にする機会が重なったことから、「新古典主義の時代」へ移行し、さらに「シュルレアリスムの時代」へと転換した。1937年、スペイン内戦でフランコ陣営を支援するナチス・ドイツがスペインの都市ゲルニカに対し無差別爆撃をおこなうと、それを非難する大作『ゲルニカ』を描き、同年のパリ万博で公開して世界に強烈な印象を与えた。第二次世界大戦中はナチスに占領されたパリにとどまったため、作品の公開を禁じられて、アトリエでひたすら制作を続けた。1950年代から過去の巨匠の作品をアレンジして新たな作品を制作することを始め、最晩年になってもそれまで以上に大胆でカラフルな激しい絵を描き続けた。1973年4月8日、肺水腫により91歳で亡くなった。


金子 みすゞ生誕120年(1903年【明治36年】4月11日) 癸卯

大正末期~昭和初期の童謡詩人。1903年(明治36年)4月11日、山口県大津郡仙崎村(現・長門市仙崎)生まれ。本名金子テル。1923年(大正12年)、「金子みすゞ」のペンネームで童謡を書き始め、雑誌『童謡』『婦人倶楽部』などの雑誌に投稿した作品が多く掲載され高い評価を受けた。1926年(大正5年)には「童謡詩人会」への入会が認められた。西條八十、泉鏡花、北原白秋、島崎藤村ら錚々たる面々が名を連ねる同会の会員のなかで女性は与謝野晶子と金子みすゞの二人だけであった。1926年に結婚し、娘を一人もうけたが、夫の放蕩などから1930年(昭和5年)2月に離婚した。みすゞは娘を手元で育てることを求めたが、夫はこれを拒否して娘の親権を強硬に主張した。3月10日、みすゞは服毒自殺を遂げ、26歳の若さで亡くなった。没後長らく注目されることはなかったが、1980年代以降、未発表作を多数収録した全集が出版されるなど脚光を浴び、再評価が進んだ結果、現在ではその作品とともに広く国民に知られる存在となった。代表作に「わたしと小鳥とすずと」「大漁」「こだまでせうか」など。


ヒトゲノム解読全作業完了20年(2003年4月14日)

ヒトゲノムはヒトの遺伝情報の1セットのことであり、その実体はDNAの約30億塩基対の配列の情報である。1990年に米国で30億ドルの予算を組んでヒトゲノム計画が発足した。ヒトゲノムの全塩基配列を解析するプロジェクトである。その後の国際的協力の拡大と、ショットガン・シークエンスシング法に代表される塩基配列解析技術の開発、解析に用いるコンピュータ技術の進歩などに助けられて、プロジェクトは順調に進展した。ただ、ゲノム解析を進めていたのはヒトゲノム計画だけではなく、セレラ・ジェノミクス社のような民間企業も商業的な意図のもと解析作業を進めていた。セレラ社はショットガン・シークエンスシング法を用いて塩基配列の解析を進め、解読した塩基配列情報を公開せずに新たな遺伝子を発見してそれを特許化しようとしていた。このことはヒトゲノム計画が掲げるオープンアクセスポリシーに反するものであり、科学の進歩を遅らせるものとして批判された。そこでヒトゲノム計画とセレラ社のあいだで調整が図られ、1996年2月に「バミューダ原則」で両者が合意し、解析によって作成されたデータは作成から24時間を基本として公開し世界中の研究者が自由に利用できるようにすることとなった。2000年6月、米国のビル・クリントン大統領と英国のトニー・ブレア首相によってヒトゲノムのドラフト(下書き版)の完成が発表された。その後、チェックが繰り返されて完成度と精度が高められ、2003年4月14日、完成版が公開され、ヒトゲノムの塩基配列の解読完了が宣言された。この時点で、ヒトの遺伝子数は3万強と推定されたが、その後の解析により、2万2千ほどと訂正された。ヒトゲノムの解読が完了しても遺伝情報の意味がすべて明らかになったわけではなく、ノンコーディング領域(特定の遺伝子をコーディングしていないDNA領域)の果たしている機能や、疾患などの個人差を生む一塩基多型(SNP)など、ヒトゲノムについての解析研究は広がり続けている。


三國連太郎没後10年(2013年【平成25年】4月14日)

昭和戦後期~平成期の俳優、映画監督。1923年(大正12年)1月20日、群馬県太田市生まれ。本名佐藤政雄。母は女中奉公中に三國を身ごもり、追い出されて、帰郷の途中で出会った男性と結婚し、その後に三國が生まれた。1943年(昭和18年)12月、大阪ではたらいていた20歳のときに徴兵検査に合格したが逃亡、憲兵に捕まり連れ戻されて出征し、漢口で終戦を迎えた。復員後は宮崎県、鳥取県、福島県など各地でさまざまな職についたのち、1950年(昭和25年)12月、東京でスカウトされて松竹に入り、翌年、「三國連太郎」の芸名でデビューした。その後、松竹から東宝、日活、フリー、東映、フリー、と移籍を繰り返しながら多くの映画に出演し、奇人と評されるほどの徹底した役作りで存在感のある実力派俳優として映画界を牽引した。出演作は『ビルマの竪琴』『飢餓海峡』『野生の証明』『ひかりごけ』など社会派作品から娯楽作品まで多岐にわたり、出演映画は総数180本以上に及んだ。1986年(昭和61年)には自ら製作・監督した映画『親鸞・白い道』でカンヌ国際映画祭審査員特別賞を受賞した。1988年~2009年の『釣りバカ日誌』シリーズでは「鈴木社長(スーさん)」役で活躍した。2012年(平成24年)春から療養型病院に入院、翌年4月14日、90歳で亡くなった。長男は俳優の佐藤浩市。


野村胡堂没後60年(1963年【昭和38年】4月14日) 癸卯

昭和戦前期から戦後期にかけての小説家。1882年(明治15年)10月15日、岩手県紫波郡彦部村(現・紫波町)の農家に次男として生まれた。本名野村長一。言語学者の金田一京助は盛岡中学校(現・岩手県立盛岡第一高等学校)の同窓生で生涯交友が続いた。また、下級生には石川啄木がおり、胡堂が短歌・俳句の手ほどきをしたとも言われる。その後、第一高等学校を経て東京帝大法科大学に入ったが、父が亡くなって学費に窮して退学し、報知新聞を発行する報知社に入社した。同紙に人物評論を連載する際に、周囲が決めた「胡堂」の号を用い始めた。1931年(昭和6年)、『文藝春秋オール讀物號』創刊号に銭形平次を主人公とする捕物帳「金色の処女」を発表し、これが人気シリーズ『銭形平次捕物控』の第1作となった。以後、同シリーズは1957年までの間に、長短篇あわせて383篇が発表された。同シリーズの人気は非常に高く、連載開始当初から21世紀にいたるまで、映画化やドラマ化が繰り返されている。銭形シリーズ以外にも、多くの時代小説や冒険小説、少年少女小説などを執筆し、「あらえびす」の筆名で音楽評論も手掛けた。1949年(昭和24年)に捕物作家クラブ(現・日本作家クラブ)が結成された際には、初代会長に就任した。1963年(昭和38年)4月14日、肺炎のため80歳で亡くなった。


ボストンマラソン爆破テロ事件10年(2013年4月15日)

2013年4月15日、米国マサチューセッツ州ボストンで、第117回ボストンマラソンの競技中に発生した爆弾テロ事件。レース開始から4時間強となる14時45分頃、ゴール付近で二度の爆発が起き、3人が死亡し、282人が負傷した。事件発生後ただちに大会は中止され、現場周辺15区画を立ち入り禁止にしてテロ事件としての捜査が始まった。18日にはFBI(連邦捜査局)が容疑者2人の写真と監視カメラのビデオを公開し、一般からの情報提供を求めた。その結果、当局は、チェチェン共和国出身の兄弟タメルラン・ツァルナエフ、ジョハル・ツァルナエフの2人を容疑者と断定した。19日午前0時過ぎ、盗んだベンツSUVに乗って逃走中の容疑者2人がウォータータウン(ボストン近郊の町)で警官に発見され、激しい銃撃戦の末、兄タメルランが確保されたが、弟ジョハルはSUVを運転して警官に向けて突進し、兄を轢いて逃走した。タメルランは搬送された病院で死亡した。ウォータータウンでは非常線が張られ、警官たちがしらみつぶしに捜索を進めた。同日の夜、住民からの通報を受けて、民家の裏庭にあったボートのタープの下に隠れるジョハルを警官隊が包囲した。上空からはヘリコプターが赤外線暗視装置によりジョハルの動きを確認した。警官たちがボートに向かって一斉発砲し、ジョハルは多数の銃弾を受けた状態で逮捕された。病院に搬送され重体と診断されたが、治療により一命を取りとめ、7月10日にジョハルの初公判が開かれた。2015年6月、連邦地裁は死刑判決を下したが、2020年7月、連邦高裁は一審での陪審選定手続きに不備があったとして一審の判断を破棄し、量刑審理を地裁に差し戻した。トランプ政権はこの決定を不服として最高裁に上訴し、2022年3月、最高裁は高裁の判断を覆して、地裁の死刑判決を回復させる判断を下している。


山本五十六没後80年(1943年【昭和18年】4月18日)

海軍軍人。第26・27代連合艦隊司令長官。1884年(明治17年)4月4日、新潟県古志郡長岡本町玉蔵院町(現:長岡市坂之上町)生まれ。旧越後長岡藩士の高野家の生まれだが、のちに、旧長岡藩家老だった山本家を相続した。1901年(明治34年)海軍兵学校に入学、1904年卒業。翌年5月には、少尉候補生として日露戦争の日本海海戦に参加し、左手と左大腿部に重傷を負ったが回復した。1919年(大正8年)から2年間米国に駐在して、米国の圧倒的な生産力に衝撃を受けた。ロンドン海軍軍縮会議で日本の海軍力が米英に対して低く抑えられたこともあり、航空戦力の重要性にいち早く着目し、1930年(昭和5年)12月に海軍航空本部技術部長に就任して以降、海軍航空戦力の向上、充実に尽力した。1939年(昭和14年)8月、連合艦隊司令長官に就任した。日米の圧倒的な国力差を認識していた山本は独伊との同盟や対米開戦には反対だったが、1940年9月、日独伊三国同盟が締結され、対米関係は悪化の一途をたどった。米国と戦うとなれば緒戦で米海軍の主力機動部隊を壊滅させて当分再起不能にする以外にないと考えた山本は真珠湾の米艦隊を奇襲する作戦を立案し、その断行を強硬に主張した。1941年(昭和16年)12月8日、真珠湾攻撃を成功させ、以後、日本軍は陸海ともに連勝を続けた。しかし、1942年(昭和17年)6月のミッドウェー海戦では大敗を喫して大幅に戦力を喪失し、日本軍が守勢に転じるきっかけとなった。1943年4月18日、前線視察のため陸上攻撃機に搭乗してラバウル基地を発進した山本は、暗号解読により情報を得て待ち受けていた米軍の航空隊に襲撃され、撃墜されて戦死した。59歳だった。着任から戦死まで3年8ヶ月の在任期間は歴代連合艦隊司令長官で最長。その死の事実は1ヶ月間伏されたのち、5月21日に公表され、6月5日に国葬が営まれた。華族制度のあった戦前に、皇族でも華族でもない平民が国葬された唯一の例となった。


上杉景勝没後400年(1623年4月19日【元和9年3月20日】)

戦国時代~江戸時代初期の武将・大名。出羽米沢藩の初代藩主。弘治元年(1555年)11月27日、越後国魚沼郡上田庄(現・新潟県南魚沼市)に上田長尾家当主・長尾政景の次男として生まれた。通称は喜平次、当初の諱は顕景。生母が上杉謙信の異母姉であり、謙信の甥にあたる。長兄が早逝したため世嗣であったが、永禄7年(1564年)、父が溺死したのを受けて、叔父謙信の養子となった。天正3年(1575年)には、諱を景勝とあらため、謙信から弾正少弼の官途名を譲られ、一門衆筆頭格となった。天正6年(1578年)3月、謙信が実子のないまま後継者を指名せず亡くなったことから、同じく謙信の養子で後北条氏出身の上杉景虎との間で「御館の乱」と呼ばれる後継争いが勃発し、景勝がこれを制して上杉家の当主となった。この争いの際に、後北条氏の依頼を受けて景虎への助勢のために出兵してきた甲斐の武田勝頼と交渉した結果、武田は景虎を裏切って景勝と同盟を結ぶことになり、景勝は武田家から勝頼の妹・菊姫を正室に迎えた。しかし、御館の乱により上杉家は国力を大幅に消耗したうえ、同盟国の武田家が天正10年(1582年)に織田・北条・徳川の同盟によって滅ぼされたことにより、四方すべて敵に囲まれて存亡の危機に瀕した。しかし、まもなくして本能寺の変で織田信長が亡くなって織田軍は退却し、上杉家は窮地を脱した。その後、景勝は、信長の後継争いを優位に進めた豊臣秀吉にいち早く臣従して、秀吉の支援のもと佐渡や出羽庄内地方へ支配を拡大した。文禄4年(1595年)には、豊臣政権下で大老(のちの五大老)となり、慶長3年(1598年)には会津120万石に加増移封となった。慶長3年(1598年)8月の秀吉の死後は徳川家康との対立を深め、慶長5年(1600年)4月、家康から上洛命令が出されると、これを拒否して家老の直江兼続による返書(直江状)で家康を挑発し、家康が会津征伐のため大軍を率いて出陣し、関ヶ原の戦いのきっかけとなった。景勝は西軍方として東軍方の伊達や最上と奥羽で戦ったが、関ヶ原の本戦で西軍が敗れたため、家康に降伏して謝罪。慶長6年(1601年)8月、出羽米沢30万石に減移封となった。120万石から30万石への大幅な減封にもかかわらず、従来の家臣を減らすことなく召し抱え続けたため、その後の米沢藩は恒常的に深刻な財政難に苦しむこととなった。元和9年(1623年)3月20日、米沢城で亡くなり、嫡男の定勝が後を継いだ。


京大瀧川事件90年(1933年【昭和8年】4月22日~7月)

戦前の京都帝国大学で起こった思想弾圧事件。最初の発端は、京都帝大法学部の瀧川幸辰教授が1932年10月に行った講演の内容が無政府主義的であるとして文部省と司法省で問題視されたことであったが、この時には法学部長による釈明で収束していた。しかし、翌年3月に複数の裁判官・裁判所職員らが共産党員もしくはその同調者として検挙された「司法官赤化事件」をきっかけに、司法官赤化の元凶たる帝国大学法学部の「赤化教授」を追放すべきだとの声が右翼や一部国会議員から挙がると、前年の講演問題もあり、司法試験委員でもあった瀧川に批判が集まった。4月には瀧川の著書『刑法講義』『刑法読本』が内務省から発禁処分を下された。5月、鳩山一郎文部大臣が京大の小西総長に瀧川の罷免を要求したが、京大側はこれを拒絶。文部省は「文官分限令」に定める「官庁事務の都合により必要なとき」を根拠として瀧川への休職処分を強行した。京大法学部は全教官が辞表を提出して抗議の意思を表明したが、大学当局や他学部教授会に支持は広がらなかった。小西総長が辞任し、7月に就任した松井新総長が、鳩山文相とのあいだで「瀧川の処分は非常特別のもの」「教授の進退は文部省に対する総長の具状によるものとする」という解決案を提示したことで、法学部教官は、要求が達成されたとして辞表を撤回した残留組と、解決案を拒否した辞職組に分裂し、最終的に教授2名、助教授5名、専任講師以下8名の辞職という形で決着した。法学部を中心とする学生も退学届を提出するなどの抗議運動を起こし、他大学も呼応して16大学が参加する「大学自由擁護連盟」が結成されたが、夏季休暇などもあって学内の抗議運動は次第に収束し、大学自由擁護連盟も弾圧により解体された。この事件により大学の自治は大きく後退し、言論弾圧の対象が共産主義から自由主義へと拡大するきっかけとなったとされる。瀧川は、戦後、GHQの意向により京大に復帰し、法学部長、総長に就任した。一方、鳩山一郎は戦後、公職追放を受けるが、その理由の一つは文相時の瀧川事件であったとみられている。


石橋湛山没後50年(1973年【昭和48年】4月25日)

大正~昭和戦前期のジャーナリスト、また昭和戦後期の政治家。1884年(明治17年)9月25日、東京市芝区芝日本榎(現:東京都港区)生まれ。父はのちに身延山久遠寺法主、日蓮宗管長となる杉田日布。早稲田大学卒業後、1908年(明治41年)12月に毎日新聞社入社、1911年(明治44年)1月には東洋経済新報社に入社する。リベラルな言論により大正デモクラシーのオピニオンリーダーの一人となり、帝国主義を批判して「小日本主義」を提唱し、植民地の放棄と平和的な加工貿易立国を主張した。1924年(大正13年)12月に主幹、翌月に代表取締役専務に就任した。戦時中は『東洋経済新報』誌上に多くのリベラリストに論説の場を提供した。戦後、自身の経済復興計画実現のため政界入りを目指し、1946年(昭和21年)4月の衆院選に日本自由党から立候補し落選したが、5月に成立した第一次吉田茂内閣に大蔵大臣として入閣した。蔵相在任中は「石橋財政」を掲げ、石炭増産を重点的に促進する傾斜生産や復興金融金庫の活用、進駐軍経費負担の軽減などを進めたが、1947年(昭和22年)5月、GHQにより公職追放された。1951年(昭和26年)6月、公職追放解除後は、吉田茂と対立する鳩山一郎派の幹部となり、1954年(昭和29年)成立した第一次鳩山内閣で通商産業大臣として入閣した。翌年11月の保守合同で自由民主党が結成されるとこれに加わり、1956年(昭和31年)12月、鳩山首相引退を受けて実施された自民党総裁選に立候補した。1回目投票では1位の岸信介に次ぐ2位だったが岸の過半数獲得を阻み、2回目投票で2位・3位連合を組んで岸に競り勝ち当選、12月23日、首相に指名された。内閣発足後、福祉国家建設、対米自主外交、中華人民共和国との貿易促進、積極財政などを掲げて全国遊説を行ったが、1957年(昭和32年)1月25日、脳梗塞で倒れた。2ヶ月の絶対安静が必要との診断に従い退陣を決断し、後任に副首相の岸を指名して2月25日辞任した。わずか65日の首相在任期間は歴代4番目の短さ(2023年1月現在)である。退陣後、脳梗塞から回復し、政治活動を再開して、中華人民共和国を訪問して周恩来首相と会談するなど、自民党内ハト派の重鎮として影響力を維持したが、1963年(昭和38年)の衆院選で落選し、政界を引退した。1973年(昭和48年)4月25日、脳梗塞のため88歳で亡くなった。1952年から1968年まで立正大学の学長も務めている。


大佛次郎没後50年(1973年【昭和48年】4月30日)

昭和期の作家。1897年(明治30年)10月9日、神奈川県横浜市生まれ。本名は野尻清彦。作家の野尻抱影は兄。1921年東京帝大法学部卒業後、女学校教師として国語と歴史を教えながら、1922年から外務省条約局嘱託として翻訳の仕事もおこなった。1923年に女学校を退職して「大佛次郎」のペンネームを使って時代小説の執筆を開始する。1924年から始まった連作時代小説「鞍馬天狗」シリーズは人気を博し、数多く映画化もされて、国民的な時代劇ヒーローとなった。大佛次郎以外にも多くのペンネームを持ち、維新期を舞台とする時代小説や伝奇者、史伝小説などを数多く執筆した。1930年に発表した『ドレフュス事件』などノンフィクションにも力を注いだほか、現代小説や児童文学も手掛けた。鎌倉文士と呼ばれた作家の草分け的存在で、鎌倉をこよなく愛し、戦後の宅地開発ブームが鎌倉に押し寄せた際には、鎌倉の景観と自然を守る運動を起こして、鎌倉風致保存会の設立に貢献し、初代理事となった。1969年からは、膨大な史料を駆使して幕末維新の時代を描いた歴史小説『天皇の世紀』の連載を朝日新聞で開始したが、1973年4月25日に病気のため休載となり、4月30日、転移性肝臓癌のため75歳で亡くなった。


5月

寺山修司没後40年(1983年【昭和58年】5月4日)

昭和戦後期の歌人、俳人、詩人、劇作家、作詞家、映画監督。1935年(昭和10年)12月10日、青森県生まれ(戸籍上は1936年1月10日生まれ)。中学時代から俳句に熱中し、県立青森高校時代には、全国学生俳句会議を結成して俳句改革運動を呼び掛けた。早稲田大学入学後には短歌に力を入れ、1954年(昭和29年)、歌誌「短歌研究」が公募した第2回五十首詠に応募して特選となった。発表された作品「チェホフ祭」は既存歌壇からの激しい反発、批判を含めて大きな話題を呼び、 鮮烈な文壇デビューとなった。1955年(昭和30年)、ネフローゼで長期入院し、早稲田大学を退学した。1959年、詩人の谷川俊太郎の勧めでラジオドラマを書き始め、以後、多くのラジオドラマ、戯曲、映画シナリオ、詩劇などを手掛けた。1967年(昭和42年)には劇団「天井桟敷」を結成し、小劇場ブームを巻き起こして「アングラ演劇四天王」のひとりと呼ばれた。1969年(昭和44年)にはカルメン・マキ「時には母のない子のように」の作詞を手掛け、1970年(昭和45年)3月には漫画『あしたのジョー』の登場人物・力石徹の葬儀委員長を務めるなど、多彩な才能と鋭敏な時代感覚、独特の感性を生かして、既存のジャンルにとらわれない旺盛な活動を展開し、カリスマ的な地位を確立していった。競馬への造詣も深く、数多くの競馬エッセイや競走馬への追悼詩などを発表し、競馬界のスポークスマン的存在でもあった。1979年(昭和54年)に肝硬変で入院して以降、1981年、1983年と入院を繰り返し、1983年(昭和58年)5月4日、腹膜炎併発後の敗血症により47歳で亡くなった。


久保田万太郎没後60年(1963年【昭和38年】5月6日) 癸卯

大正~昭和期の劇作家、小説家、俳人。1889年(明治22年)、東京府東京市浅草区(現・東京都台東区)生まれ。慶應義塾大学予科在学中に俳句を始め、夏目漱石門下生の俳人・松根東洋城に師事した。本科進学後、『三田文学』に小説や戯曲を発表して高い評価を受け、脚光を浴びた。卒業後は新派が上演する戯曲を多く執筆したり、新聞に長編小説を連載したりしたほか、放送局の嘱託としてラジオドラマも手掛けた。1937年(昭和12年)には劇団文学座を結成し、以後その演出を多く手掛けた。その小説や戯曲は多くが浅草を舞台とし、江戸情緒ただよう情話を得意とした。俳句では、1927年(昭和2年)に処女句集『道芝』を刊行、1946年(昭和21年)には俳誌『春燈』を創刊して主宰し、様々な流れを汲む参加者の個性を尊重しながら多数の俳人を育てた。代表句に「神田川祭の中をながれけり」「湯豆腐やいのちのはてのうすあかり」など。1951年(昭和26年)には日本演劇協会の創立とともに初代会長となり、亡くなるまで務めた。1963年(昭和38年)5月6日、赤貝をのどにつまらせ、誤嚥による窒息で亡くなった。


夏八木勲没後10年(2013年【平成25年】5月11日)

昭和戦後~平成期の俳優。1939年(昭和14年)12月25日、東京市足立区千住(現・東京都足立区千住)生まれ。「夏八木勲」は本名だが、1978~1984年の間は「夏木勲」名義で活動した。慶應義塾大学在学中の1960年(昭和35年)、知人の勧めで文学座研究所へ入所したが、アルバイトに忙しく演技の授業をおろそかにすることが多く、1年後の正座員選考に落ちた。このことで負けん気に火がつき、1963年に劇団俳優座養成所に入所し直して、1966年に3年間の研修を終えて卒業すると、東映と契約して同年映画デビュー。学生時代から柔道や空手で鍛えた身体を活かして、アクションとスピードにあふれる演技でこれまでにない時代劇ヒーローを演じて評価された。1968年(昭和43年)、東映を退社して京都から東京へ戻り、以後、時代劇、アクション映画、やくざ映画などで幅広く活躍し、主演助演を問わず独特の存在感を示した。1977年以降、角川映画の常連俳優として『野生の証明』『白昼の死角』『戦国自衛隊』など数多くの作品に出演した。テレビドラマでも、『鬼平犯科帳』の井関録之助役など数多くの人気シリーズのゲスト俳優、大型ドラマの重要キャストなどで活躍した。鍛錬によって健康な肉体を保つことをモットーとし、生涯現役を貫いたが、2012年秋から膵癌を患い、翌年5月11日、73歳で亡くなった。


太田南畝(蜀山人)没後200年(1823年5月16日【文政6年4月6日】)

江戸時代天明期の文人、狂歌師。狂歌三大家のひとり。寛延2年3月3日(1749年4月19日)、江戸で御家人大田正智の嫡男として生まれた。諱は覃(ふかし)、通称ははじめ直次郎、のち七左衛門。号は南畝のほか、蜀山人、杏花園など。また狂歌では四方赤良、狂詩では寝惚先生と名乗った。家は貧しかったが幼いころから学問に優れ、歌人や漢学者に師事して漢学や国学を学んだ。明和4年(1767年)に狂詩集『寝惚先生文集』を刊行して評判となった。明和6年(1769年)頃から狂歌会を開催して、江戸での狂歌流行の火付け役となり、自身も狂歌師として名声を得た。天明3年(1783年)には、同じく狂歌三大家のひとりである朱楽菅江とともに、二百人以上の狂歌を集めた『万載狂歌集』(千載和歌集のパロディ)を編纂した。田沼政権の勘定組頭土山孝之から援助を受けて経済的に潤うようになったが、田沼意次が失脚して松平定信による寛政の改革が始まり風紀取り締まりが強まると、パトロンであった土山が斬首に処せられるなど南畝の周囲にも断罪の手が及ぶようになり、南畝は狂歌師としての活動を控えるようになった。一方、公職では、寛政6年(1794年)に人材登用試験「学問吟味」を受験して首席合格し、2年後、支配勘定に任命され、享和元年(1801年)には大坂銅座に赴任した。大坂滞在中、「蜀山人」の号で狂歌を再開したほか、上田秋成や木村蒹葭堂らと交流した。1804年(文化元年)には長崎奉行所に赴任し、随筆『瓊浦又綴』(瓊浦は長崎の雅名)を著した。1812年(文化9年)には狂歌集『放歌集』を出版している。文政6年4月6日(1823年5月16日)、75歳で亡くなった。


エリトリア独立30年(1993年5月24日)

アフリカ大陸北東部、エチオピアの北の紅海沿岸に位置する国。19世紀にはエチオピア帝国の支配下にあったが、1880年代、海外領土を求めるイタリアが入植を開始し、これに反発したエチオピアとの間でエリトリア戦争(1885~1889)が勃発した。1889年、ウッチャリ条約により両国は講和し、エチオピアはエリトリアをイタリアに割譲した。「エリトリア」の名は、紅海を意味するラテン語からイタリアによって命名されたものである。第二次世界対戦でイタリアが敗北し、戦後、国際連合でエリトリアの帰属が協議された結果、エチオピアとの連邦国家を構成することになり、1952年、エチオピア・エリトリア連邦が成立した。しかし、エチオピアはエリトリアの自治を弾圧して支配を強化し、1962年にはエリトリアを完全に併合した。これに対し、エリトリアは三十年にわたる独立戦争を展開し、1991年5月、エリトリア人民解放戦線(EPLF)が、エチオピアの反政府勢力・エチオピア人民革命民主戦線(EPRDF)と共同でエチオピアの首都アディスアベバを陥落させた。これによりエリトリア全域はEPLFの実効支配下に置かれて暫定政府が樹立され、5月29日、初代大統領に就任したイサイアス・アフェウェルキが独立を宣言した。エリトリア暫定政府とエチオピア新政府との協議により、エリトリアで独立の是非を問う住民投票を実施することが承認され、1993年4月の住民投票で99%が独立を支持した。この投票結果は国際的にも承認され、1993年5月24日、エリトリアは正式に独立した。独立後のエリトリアでは、EPLFが改組された民主正義人民戦線(PFDJ)が共産主義を掲げて一党独裁制を敷き、国民は厳重な監視のもとに置かれ、政治参加や言論の自由は一切認められず、公正な裁判も受けられない。18~55歳までの全国民に奴隷的公務員としての強制労働が義務付けられるなど深刻な人権侵害が国際社会から問題視され、「アフリカの北朝鮮」と呼ばれている。


三世一身法発布1300年(723年5月25日【養老7年4月17日】)

奈良時代の養老7年4月17日(723年5月25日)に発布された格(律令の修正法令)。開墾の奨励のため、新しく灌漑施設を設けて開墾した田地は三代にわたって、既存の灌漑施設を復旧して開墾した田地は一代限り、私有を認めることを定めた。従来の律令制では、土地と人民はすべて国家のものとされ、土地の私有は認められなかった。農民には口分田が割り当てられ、生涯にわたって耕作することができたが、亡くなれば国に返還された。耕地開発は当初、国家によっておこなわれていたが、やがて限界を迎え、増加した人口を支える農地不足が深刻化した。日本が手本とした唐の律令制には、自分で開墾した農地は「永業田」として子孫に相続することができる仕組みがあったが、日本はこの制度を導入しなかったため、民間による耕地開発のインセンティブが存在しなかったのである。そこで、三世一身法により期限付きながら開墾地の私有を認めることで、民間による開墾を奨励することとした。三世一身法の施行は社会に大きなインパクトを与え、各地で官人や寺社、有力農民などによる開墾が活発化し、田地が増加したことは確かであったと考えられている。しかし、あくまで期限付きの私有であるという限界があり、また、730年代に入って大旱魃による飢饉や天然痘の流行により、人口減少と農地荒廃が進んだこともあって、国土復興のためにさらなる開墾奨励が急務となった結果、三世一身法の内容では不十分とされ、開墾地の永代所有を認める墾田永年私財法(743年)が施行されることになる。


堀辰雄没後70年(1953年【昭和28年】5月28日)

昭和戦前期の小説家。1904年(明治37年)12月28日 、東京市生まれ。父は広島藩の士族で、維新後に上京して東京地裁に務めていた。母は父の正妻ではなかったが、辰雄は堀家の嫡男として届けられ、母も堀家に同居していた。父には広島に正妻がおり、1906年、その正妻が上京してくることになったため、母は辰雄を連れて堀家を家出し、1908年には彫金師と結婚した。辰雄は養父を実の父と信じていたという。1921年(大正10年)、第一高等学校に入学すると、友人の影響で文学に目覚め、同人誌に作品を発表するようになった。1923年(大正12年)には室生犀星や芥川龍之介の知遇を得るが、一方で9月には関東大震災で被災して母を失い、結核による肋膜炎に罹患して休学を余儀なくされた。1925年(大正14年)、東京帝国大学文学部入学。1927年(昭和2年)7月、芥川龍之介が自殺して大きなショックをうけ、翌年1月には肋膜炎が再発して大学を休学して湯河原、軽井沢で静養した。1929年(昭和4年)10月、川端康成、横光利一らと同人誌『文學』を創刊。1930年(昭和5年)11月には、芥川の死をモチーフに身辺体験を描いた『聖家族』を発表して文壇から高い評価を受けたが、再び結核が悪化して喀血し、以後、頻繁に軽井沢等で療養することになった。長い療養生活のなかでプルーストやジェイムズ・ジョイスなど当時のヨーロッパの最新文学に触れたことが、独自の文学世界を深化させていくことにつながった。1935年(昭和10年)7月、婚約者の矢野綾子とともに八ヶ岳山麓の富士見高原療養所に入院したが、12月、綾子は病状が悪化して亡くなり、この体験が、1936~37年にわたって執筆された代表作『風立ちぬ』の題材となった。その後、1941年(昭和16年)には初の長編小説『菜穂子』を発表したが、1946年(昭和21年)3月以降、病床に臥せって執筆活動はなくなり、1953年(昭和28年)5月28日、48歳で亡くなった。


6月

俱利伽羅峠の戦い840年(1183年6月2日【寿永2年5月11日】) 癸卯

平安末期、治承・寿永の内乱(源平争乱)における戦いのひとつ。寿永2年5月11日(1183年6月2日)、越中・加賀国境にある砺波山の俱利伽羅峠で木曾義仲軍が平維盛率いる平家軍を破った。以仁王の平家追討の令旨に応じて信濃で挙兵した木曾義仲は、治承5年(1181年)6月、越後から攻め入ってきた平家方の城長茂を横田河原の戦いで破り、北陸方面へ勢力を拡大した。寿永2年(1183年)4月、平家は北陸道を奪回すべく平維盛を大将とする追討軍10万を派遣した。平家軍は越前・火打城の戦いで義仲軍を破り、さらに加賀に入って進撃を続けたが、5月9日、越中まで進んだ先遣隊が般若野の戦いで義仲軍の先鋒今井兼平に奇襲されて敗れ、いったん退却した。平家軍は能登の志雄山と加賀・越中国境の砺波山に分かれて布陣した。5月11日、義仲は別動隊を志雄山に差し向けて牽制した上で、自身は本軍を率いて敵の大将平維盛が布陣する砺波山へ向かった。義仲は昼間のうちにひそかに樋口兼光の一隊を平家軍の背後に回り込ませたうえで夜を待ち、平家軍の寝静まったころを見計らって大きな音を立てながら夜襲を仕掛けた。義仲本隊と樋口兼光隊に挟み撃ちされた平家軍は混乱に陥り、敵のいない方向に逃げようとして俱利伽羅峠の断崖へと次々転落してたちまち壊滅し、戦は義仲軍の大勝に終わった。平維盛は追討軍の過半を失い、命からがら加賀へ逃れたが、追撃する義仲軍は続く篠原の戦いでも平家軍に圧勝し、維盛は京へ逃げ帰った。大軍を失った平家はもはや京を支えきれず、安徳天皇を伴って都落ちして西国へ逃れ、入れ替わって義仲軍が上洛することになる。


アダム・スミス生誕300年(1723年6月3日)

18世紀英国の哲学者、経済学者。「経済学の父」と呼ばれる。1723年6月5日、スコットランド生まれ。グラスゴー大学で道徳哲学を学んで卒業すると、オックスフォード大学に進み、6年間ギリシア・ローマ古典を学んだ。その後、オックスフォードを中途退学してスコットランドへ戻り、1748年、市民を対象とした文学、法学、歴史などの講義を始めた。1751年、グラスゴー大学の教授に就任し、学部長にも選出された。この時代に哲学者ヒュームや発明家ジェームズ・ワットなどと交友を持ち、影響を受けた。1759年には『道徳感情論』を出版し、人間は自らの胸中の「公平な観察者」の声に従おうとする自己統制によって社会秩序を維持していると説いた。1764年にはグラスゴー大学を辞職してスコットランド貴族の家庭教師となり、3年間の大陸旅行に同行し、ヴォルテールやケネー、テュルゴーなどフランス啓蒙思想家たちと交流を持ち、彼らからも影響を受けた。英国に帰国後は執筆に専念し、1776年、『国富論(諸国民の富の本質と原因に関する研究)』を出版した。本書では、貴金属貨幣を富とみなす重商主義を否定し、労働によって生産される必需品・便益品すべてを富と位置づけた。そして、各個人が自己の利益を追求することによって、「見えざる手」に導かれるように、市場における自由競争を通じて結果的に社会全体における適切な資源配分が達成されると説いた。また、市場や社会への国家の不適切な介入を批判する立場から、国家の役割を国防・司法・公共事業に限定した。本書は近現代の経済学の出発点となり、誤解を含めて後世に絶大な影響を及ぼした。実際にはスミスは自由放任主義(レッセ・フェール)を礼賛したわけではなく、「夜警国家」を主張したわけでもないが、そのような誤解に基づく批判ないし崇拝は今日までなお根強く続いている。『国富論』の後、1778年にはスコットランド関税委員、1787年にはグラスゴー大学名誉総長に就任し、1790年7月17日、エディンバラで病死した。67歳。


長門勇没後10年(2013年【平成25年】6月4日)

昭和戦後期~平成期の俳優。1932年(昭和7年)1月1日、岡山県倉敷市生まれ。高校卒業後、職を転々としたのち、1948年、旅回り一座の劇団に入団した。翌年には上京し、浅草小劇場やロック座、フランス座などでコメディアンとして活動しながら、テレビ界に進出した。飾り気のない親しみやすさと人懐こいひょうきんさを武器に、黎明期のテレビドラマで時代劇から現代劇まで様々な役をこなしてキャリアを積んだ。岡山弁を活かした台詞回しがそのキャラクターに合致して人気を得るようになり、1963年(昭和38年)に放送が始まった『三匹の侍』シリーズで槍の名手・桜京十郎を演じて、これが当たり役となり、人気俳優としての地位を確立した。その後も数多くの人気ドラマに出演して、独自の存在感を持つ俳優として活躍を続けた。2011年(平成23年)頃から脳梗塞を患い、2013年(平成25年)6月4日、81歳で亡くなった。


池大雅生誕300年(1723年6月6日【享保8年5月4日】)

江戸時代中期の画家、書家、文人。享保8年5月4日(1723年6月6日)、京都生まれ。本来の名字は池野、号は大雅のほか、子職、霞樵、九霞など。4歳のときに、銀座役人の下役だった父を亡くし、貧しい少年期を過ごしたが、7歳から書を学び始め、神童と称された。15歳になり、母とともに二条樋口に店を開いて、扇屋と篆刻を営んだ。『八種画譜』(中国明代後期に出版された画集。唐代詩人の五言絶句と画がペアになっており、各画は付された詩の内容を描いている)を習い、それを扇面に描いて売っていたという。まもなく柳沢淇園(日本文人画の先駆者)に師事して才能を認められ、その文人画の技を伝えられた。同じく淇園に画を学んでいた徳山玉瀾を淇園から紹介されて妻とし、画家夫婦として名を成した。淇園から伝授された指頭図(筆を使わず指で描く技法)を発展させて手のひらまで使って山水画を描くなど、師の技法の継承するだけでなくダイナミックに発展させていった。琳派や西洋画などからも表現技法を取り入れ、変化に富む独自の画風を確立し、人物、花鳥、山水とあらゆる題材を描いた。49歳のとき、与謝蕪村と合作した「十便十宜図」は特に傑作として有名で、蕪村とともに日本文人画の大成者と評価される。


天皇・皇后両陛下結婚の儀30年(1993年【平成5年】6月9日)

皇太子浩宮徳仁親王(当時。現天皇)と雅子皇太子妃(当時。現皇后)の結婚の儀式。国事行為として行われた。雅子皇太子妃は外交官小和田恆の長女で、自らも1987年、外交官として外務省に入省した。二人は1986年(昭和61年)10月、スペイン王女を迎える東宮御所のパーティで始めて対面し、以後、何度か交流の機会を持ったが、報道の過熱もあり、小和田家側はいったん妃候補を辞退した。1989年1月、昭和天皇が崩御し、平成に改元され、徳仁親王は皇太子となった。1992年(平成4年)8月、皇太子の希望を受けて、二人は宮内庁長官公邸で再会した。10月には宮内庁管理の新浜鴨場(千葉県市川市)でプロポーズし、12月12日、雅子妃は東宮仮御所を訪れて受諾の返事をした。同年2月にマスコミ各社は宮内庁の申し入れにより、皇太子妃報道を自粛する協定を結んでおり、一連の経緯は報道を控えられていたが、翌1993年(平成5年)1月6日、協定にしばられない『ワシントン・ポスト』が皇太子妃内定を報道したため協定は無効となり、国内マスコミも一斉に報道を開始した。1月19日には皇室会議が開催され、全員賛成により結婚が承認され、同日、婚約会見が開かれた。4月12日の納采の儀(一般の結納にあたる)、4月20日の告期の儀(結婚の儀の日取りを皇室の使者が伝える儀式)を経て、6月9日、午前10時から宮中三殿で結婚の儀が執り行われた。15時からの朝見の儀で、結婚後初めて天皇皇后に拝謁したのち、皇居正門から赤坂御用地の鮫が橋門までパレードが行われ、沿道を約20万人が埋め尽くした。一般の披露宴にあたる宮中饗宴の儀は6月15日から3日間、皇居豊明殿で計6回行われ、内外の各界要人が出席した。


劉備(蜀漢の昭烈帝)没後1800年(223年6月10日【章武3年4月24日】)

後漢末期の武将、三国・蜀漢の初代皇帝。字は玄徳。廟号は烈祖、諡号は昭烈皇帝。後漢の延熹4年(161年)、涿郡涿県の生まれ。前漢・景帝の第9子、中山靖王劉勝の末裔ともいうが定かではない。幼くして父を亡くし、家は貧しかった。中平元年(184年)黄巾の乱が起こると、義兄弟の契を結んだ関羽・張飛らと義勇兵として討伐軍に加わり功をあげた。その後、各地の群雄を頼って身を寄せながら流浪を続けた。献帝を擁する曹操と同盟していた時期に、左将軍、豫州牧に任じられている。建安4年(199年)、徐州で曹操に反旗を翻し、河北の大勢力、袁紹を頼るが、翌年には白馬・官渡の戦いで袁紹を破った曹操に追われ、建安6年(201年)、荊州の劉表の元へ身を寄せた。建安12年(207年)、天下三分の計を説く諸葛亮を「三顧の礼」でブレーンとして迎え入れた。建安13年8月(208年10月)、劉表が亡くなると、曹操が荊州を制圧し、劉備は再び曹操に追われることとなった。しかし劉備は、長江下流域を抑える呉の孫権と同盟して、同年冬、赤壁の戦いで曹操を破り、曹操の天下統一を阻んだ。戦後、劉備軍は荊州を掌握し、ようやく確固たる拠点を得た。その後、建安19年(214年)には益州(蜀)を攻略し、さらに漢中も制圧して、漢中王と称した。建安24年(219年)、曹操と同盟した孫権に荊州を奪われ、荊州を守っていた義兄弟の関羽は捕えられ処刑された。建安25年(220年)、曹操の後を継いだ曹丕が献帝から禅譲を受けて帝位につき魏王朝を開いて、後漢は滅亡した。翌年4月(221年5月)、劉備は漢王朝を継承すべく群臣の推戴を受けて帝位につき、元号を章武と定めた。蜀の地に拠る漢王朝という意味で蜀漢、あるいは単に蜀と呼ぶ。同年6月、義兄弟の張飛が部下に殺され、部下は呉へ亡命した。7月、関羽と張飛の仇を討つため自ら軍を率いて呉へ攻め入ったが、翌章武2年夏、呉軍の反撃を受けて大敗し、かろうじて白帝城に逃げ込んだ。ここでまもなく病を発した劉備は、章武3年4月24日(223年6月10日)、諸葛亮に向かって「我が子劉禅に素質があれば補佐してほしい、暗愚で補佐する値打ちがなければ、そなたが替わって国を治めよ」と後事を託し、息子たちには「諸葛亮を父と思って仕えよ」と遺言して亡くなった。


本因坊算砂没後400年(1623年6月13日【元和9年5月16日】)

安土桃山時代~江戸時代初期の棋士。碁の家元・本因坊家の始祖。永禄2年(1559年)、京都生まれ。名字は加納、幼名は與三郎。8歳で出家し、叔父で法華宗寂光寺を開山した日淵に師事した。法名は日海、のち寂光寺の塔頭・本因坊の住職をつとめ、本因坊算砂と名乗った。仏教修行のかたわら碁を学び、やがて碁の第一人者としての地位を確立していく。天正16年(1588年)、関白豊臣秀吉の御前で碁を打ち、勝ち抜いて20石10人扶持を与えられたという。慶長13年(1608年)、詰碁や手筋などを収録した日本初の囲碁書『本因坊碁経』を刊行した。慶長17年(1612年)、碁打ち衆の一人として50石10人扶持の俸禄が与えられ、以後、江戸時代を通じて、本因坊家は碁打ち四家元の筆頭に君臨し、名棋士を輩出しながら、権威を受け継いでいった。明治以降も本因坊家は続いたが、1938年(昭和13年)に二十一世本因坊秀哉が引退とともに、本因坊の名跡を日本棋院に譲渡したことで、本因坊の名跡の継承は家元制から実力制に移行した。これが現在まで続く本因坊戦の起源である。


パスカル生誕400年(1623年6月19日)

近世フランスの哲学者・思想家・数学者。詳しくは→「ブレーズ・パスカル(1623~)没後360年(1662年8月19日) 壬寅」


滝廉太郎没後120年(1903年【明治36年】6月29日) 癸卯

明治時代の音楽家、作曲家。日本における西洋音楽黎明期を代表する音楽家。1879年(明治12年)8月24日、東京生まれ。父は豊後日出藩の家老であったが、維新後、上京して大蔵省や内務省の官僚、地方官として勤めた。1894年(明治27年)、東京音楽学校に入学、1898年(明治31年)には同校研究科に進学し、作曲とピアノ演奏を学んで才能を開花させ、日本オリジナルの唱歌の草創期を担う作曲家となった。1901年(明治34年)からヨーロッパに留学し、ライプツィヒ音楽院に入学して作曲や音楽理論を学んだが、肺結核を発症し、翌年には帰国を余儀なくされた。帰国後は父の故郷である大分県で療養生活を送り、1903年(明治36年)6月29日、23歳の若さで亡くなった。音楽家としての活動期間は短く、遺された作曲作品は34曲と多くはないが、「花」(組歌『四季』の第1曲)、「荒城の月」「箱根八里」などの作品は近代日本を代表する歌曲として高く評価され、今日まで世代を超えて長く愛唱され続けている。


7月

東京都誕生80年(1943年【昭和18年】7月1日)

慶應4年4月(1868年5月)に江戸を制圧した新政府は江戸鎮台府を置いて軍政を布いた。同年7月17日の詔勅で江戸は西の京都に対する「東京」となり、東京市中(旧江戸市中)とその周辺地区を管轄する行政機関として東京府が開かれた。明治4年11月14日、廃藩置県により全国の府・藩・県が再編成されたのに伴い、東京府も新たな町村を加えて再発足した。明治13年(1880年)には伊豆諸島・小笠原諸島が編入され、明治26年(1893年)には神奈川県から三多摩郡が移管されたことで、ほぼ現在の東京都の境域となった。明治22年5月、東京府下の15区の範囲に東京市が設置されたが、市制特例による特別市とされて府知事が市長を兼任し、地方団体としての市の活動は留保された。明治31年(1898年)10月、市制特例が廃止され、東京市が地方団体として活動を開始した。昭和7年(1932年)10月、東京市に隣接する5郡82町村を20区に編成して東京市15区と合併させ、東京市は35区に拡大して人口500万を超えた。日中戦争から第二次世界大戦へと戦局が拡大するにつれ、首都東京の政治・経済の統制強化を求める声が政府を中心に強まり、昭和18年(1943年)7月1日、東京都制が発足して、東京府・東京市が統合されて「東京都」が誕生した。東京都制は戦時法制のひとつであり、このとき成立した東京都は、現在の東京都とは別のものであるが、現在まで続く「東京都」という名称はこの時から始まる。東京都の長は知事ではなく東京都長官であり、旧東京市下にあった区、東京市以外の市町村に対する都の監督が強化され、戦争遂行のための首都行政の高度な効率化が目指された。敗戦後の昭和22年(1947年)5月3日、日本国憲法施行により、東京都制は廃止され、地方自治法に基づく東京都があらためて設置され、現在に至っている。


加藤楸邨没後30年(1993年【平成5年】7月3日)

明治38年(1905年)5月26日、東京生まれ。本名は健雄。国鉄勤務であった父・健吉の転勤にしたがって少年期は各地を転々とした。大正14年(1925年)に父が病死、翌年、単身で上京し、東京高等師範学校に併設の臨時教員養成所に入学し、卒業後は中学校教員となった。昭和6年(1931年)ごろ、同僚に誘われて俳句を始め、水原秋桜子の門下に入って秋桜子主宰の『馬酔木』に投句するようになった。当時の秋桜子は客観写生・花鳥諷詠をとなえる『ホトトギス』を離れて俳句革新を進めようとしていた頃であり、楸邨はこれに共鳴して抒情と詠嘆に富む句を詠んでたちまち頭角をあらわした。昭和12年(1937年)には、いったん教員を辞して東京文理大学(現:筑波大学)国文科に入学し、『馬酔木』発行所に編集・事務として勤めながら大学に通った。昭和14年3月には第一句集『寒雷』を出版した。このころ、楸邨の句風は従来の抒情性を超え、人間の生活や自己の内面を深く掘り下げようとする方向へと変化していき、石田波郷や中村草田男らとともに「人間探求派」と呼ばれるようになった。昭和15年(1940年)3月には東京文理大学を卒業、10月には主宰誌『寒雷』を創刊した。戦時中は、大本営報道部嘱託の形で大陸に渡り、各地を旅行して句文集を出版したりしたものの、特に戦争協力者であったわけではなかったが、敗戦直後には非難も受け、自身の不明を悔いる思いに苦しみ、その中で新たな俳句の境地を切り開いていった。戦後は何度か病を得たが、その闘病の中でさらに作風を深化させていった。主宰誌『寒雷』からは森澄雄、金子兜太をはじめとして、その後の俳壇を担う多くの俳人が育った。また、ライフワークとした芭蕉研究のほか、多数の評論、随筆を手掛けた。代表句に「鰯雲人に告ぐべきことならず」「隠岐やいま木の芽をかこむ怒濤かな」「雉子の眸のかうかうとして売られけり」など。


SARS終息宣言20年(2003年7月5日)


井伏鱒二没後30年(1993年【平成5年】7月10日)


バハマ独立50年(1973年7月10日)


任天堂のファミコン発売40年(1983年【昭和58年】7月15日)


ブルース・リー没後50年(1973年7月20日)


朝鮮戦争休戦成立70年(1953年7月27日)


地租改正150年(1873年【明治6年】7月28日)


8月

浅間山天明の大噴火240年(1783年8月5日【天明3年7月8日】) 癸卯


中村草田男没後40年(1983年【昭和58年】8月5日)


司馬遼太郎生誕100年(1923年【大正12年】8月7日)


金大中事件50年(1973年【昭和48年】8月8日)


細川非自民連立政権発足30年(1993年【平成5年】8月9日)


鉄砲伝来480年(1543年9月23日【天文12年8月25日】) 癸卯


レインボーブリッジ開通30年(1993年【平成5年】8月26日)


レーウェンフック没後300年(1723年8月26日)


日本初の民放放送開始70年(1953年【昭和28年】8月28日)


黒田長政没後400年(1623年8月29日【元和9年8月4日】)


小川環樹没後30年(1993年【平成5年】8月31日)


9月

関東大震災100年(1923年【大正12年】9月1日)


大韓航空機撃墜事件40年(1983年【昭和58年】9月1日)


J・R・R・トールキン没後50年(1973年9月2日)


折口信夫(釈迢空)没後70年(1953年【昭和28年】9月3日)


2020年東京五輪開催決定10年(2013年【平成25年】9月7日)


ハナ肇没後30年(1993年【平成5年】9月10日)


日越国交樹立50年(1973年【昭和48年】9月21日)


5代目古今亭志ん生没後50年(1973年【昭和48年】9月21日)


宮沢賢治没後90年(1933年【昭和8年】9月21日)


ギニアビサウ独立50年(1973年9月24日)


10月

JAXA(宇宙航空研究開発機構)発足20年(2003年【平成15年】10月1日)


ソマリア・モガディシュの戦闘30年(1993年10月3~4日)


第四次中東戦争50年(1973年10月6~24日)


ラングーン事件40年(1983年10月9日)


やなせたかし没後10年(2013年【平成25年】10月13日)


新渡戸稲造没後90年(1933年【昭和8年】10月15日)


ウォルト・ディズニー・カンパニー設立100年(1923年10月16日)


征韓論政変(明治六年政変)150年(1873年10月25日)


アベベ・ビキラ没後50年(1973年10月25日)


川上哲治没後10年(2013年【平成25年】10月28日)


トルコ共和国成立100年(1923年10月29日)


トルコ・ボスポラス海峡トンネル開通10年(2013年10月29日)


マレーシア・マハティール首相退陣20年(2003年10月31日)


尾崎紅葉没後120年(1903年【明治36年】10月30日) 癸卯


寿永二年十月宣旨(朝廷による東国自治公認)840年(1183年10月31日【寿永2年10月14日】) 癸卯

院政期、「領域型荘園」の成立によって、荘園は単なる私有耕作地ではなく、山野も含む広大な領域を囲い込んだ治外法権的な領地となり、「本家-領家-荘官」の三層構造の領主権によって支配されるようになった。在地領主たる武士たちは、最下層の領主である荘官に任じられて荘園の経営管理の実務を担い、本家(皇族や摂関家、大寺社)や領家(貴族や寺社)に年貢・公事を納めることで彼らからその権利・権限を保証された。武士たちの在地領主としての地位は、譲渡や世襲相続が可能な「職(しき。所職ともいう)」として確立していった。同じ頃、知行国制の成立などにより、公領においても、「知行国主-国司-郡司・郷司・在庁官人etc」という実質的に荘園と同様の支配構造が確立して、郡司や郷司、在庁官人たちの役職も武士たちが保有する「職」となった。荘官や郡司などの「職」は本家や領家、国司などによって任免されるものであり、その譲渡・相続も彼らの承認を(形式的にせよ)必要とした。ところが、平家打倒をとなえて挙兵した源頼朝は、治承4年(1180年)鎌倉に入って関東の実質的な統治を始めると、敵方の武士の「職」を取り上げ、恩賞として配下の武士(御家人)に与えた。上位領主(本家・領家・知行国主・国司)の承認を得ない越権行為であったから、本来ならば朝廷としては許しがたい暴挙のはずだったが、当時の京は東国(頼朝・木曽義仲支配下)からも西国(平家支配下)からも年貢の納入が滞って深刻な窮乏状態に陥りつつあり、朝廷は頼朝と妥協する必要に迫られていた。一方の頼朝も、平家追討で先行する木曽義仲に対する優位を示し、自身の政権を安定させるために朝廷から正統性を認められる必要があった。交渉の結果、両者の妥協が成立し、寿永2年(1183年)10月、頼朝に対し宣旨が下り、「職」を与えられた御家人たちの年貢納入を頼朝に保証させるかわりに、頼朝による「職」の任免を追認した。この宣旨によって頼朝の東国支配は朝廷から公認され、武士の自治政府が在地領主の任免権を握ることになった。この結果、主君に臣従して軍事奉仕の義務を負う見返りに領地の支配権を与えられる西欧封建制(Feudalism)に似た仕組みが日本でも成立することになった。一方、本家や領家など上位領主は、年貢を受け取る権利は確保したものの、任免権を手放したことで在地領主への統制力を徐々に失っていくことになる。とはいえ、本家や領家の地位や権利が消滅したわけではないため、この後、「本家-領家-荘官」の上下関係と、「鎌倉殿-御家人」という主従関係が併存することとなった。


11月

欧州連合発足30年(1993年11月1日)


平田篤胤没後180年(1843年11月2日【天保14年閏9月11日】) 癸卯


パナマ共和国成立120年(1903年11月3日) 癸卯


泉鏡花生誕150年(1873年【明治6年】11月4日)


独ミュンヘン一揆100年(1923年11月8日)


サトウハチロー没後50年(1973年【昭和48年】11月13日)


ケネディ大統領暗殺事件60年(1963年11月22日) 癸卯


カイロ会談80年(1943年11月22~27日)


グルジア・バラ革命20年(2003年11月23日)


12月

郵便葉書発売150年(1873年【明治6年】12月1日)


和食のユネスコ無形文化遺産登録10年(2013年【平成25年】12月4日)


南アフリカ共和国ネルソン・マンデラ元大統領没後10年(2013年12月5日)


山本権兵衛没後90年(1933年【昭和8年】12月8日)


小津安二郎生誕120年(1903年【明治36年】12月12日)・没後60年(1963年【昭和38年】12月12日) 癸卯


力道山没後60年(1963年【昭和38年】12月15日) 癸卯


田中角栄元首相没後30年(1993年【平成5年】12月16日)


ネパール独立100年(1923年12月21日)